
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「第103号哨戒艇」 Nさんの戦争体験から ― 2009/06/11
火曜日のことでした。
戦争体験を語ってくれたNさんが、
ふたたび事務所を訪れました。
「今度の木曜日いるか?」
「ええ、います」
「じゃあ、書いたものもってくるわ」
私がNさんの戦争体験に関心をもったので、
その記録の一部を見せるというのです。
「じゃあ」と出かけるところを引きとめ、
指の写真を撮らせてもらいました。
それがあとから追加した写真です。
木曜日といえば、明日(11日)の朝のこと。
(実際は、もう「今日」ですけれど)
聞き漏らさないように、前のお話のメモを
見直すことにしました。
ひっかかったことは、乗っていた船のこと。
よく知られたもののように、名前をいいました。
「第103号哨戒艇」・・・・量産された哨戒艇の一つ?
気になったのは沈没の日付。
やけに正確でした。「1945年1月12日」。
理由は、個人生活にかかわる記念日だ
そうですけれど。
ネットで調べて驚きました。
ちゃんと載っているのです。
しかも、この船は、同型艦が一つもないのです。
それもそのはずです。
アメリカの船。AM9 FINCH。
哨戒艇(AUXILIARIES-MINE SWEEPERS.)です。
しかも、沈没したあと、改造したものでした。
AM9 FINCHが製造されたのは、1918年9月10日。
日本軍の攻撃を受けて沈没したのが、1942年4月11日。
マニラ沖ジャビデ港でのこと。
5月に浮揚?日本海軍第103工作部が修理。
1943年4月1日に第三南遣艦隊に編入。
このときに、「哨戒艇第103号」と改名。
詳しくは、ココをクリック。
ちなみに、戦利艦の哨戒艇は、101号から
109号まであったのです。
そういう経歴の船に、Nさんは配備されたのですね。
その後のことですが、Nさんの話のとおり、
1945年1月12日に、ベトナム南部の
ファンリ沖で、アメリカ海軍空母艦載機の
空襲により撃沈されたとあります。
排水量は、980トン
全長は、56.2メートル。
全幅は、10.08メートル。
乗員は70名。
装備は、8cm単装高角砲2基と爆雷48発
Nさんは、空襲をうけたとき、船倉の
弾薬をはこびに降りたといっていました。
それは、この高角砲の砲弾だったのです。
船の写真があれば、もっと思い出して
もらえるのでしょうけれど。
戦争体験を語ってくれたNさんが、
ふたたび事務所を訪れました。
「今度の木曜日いるか?」
「ええ、います」
「じゃあ、書いたものもってくるわ」
私がNさんの戦争体験に関心をもったので、
その記録の一部を見せるというのです。
「じゃあ」と出かけるところを引きとめ、
指の写真を撮らせてもらいました。
それがあとから追加した写真です。
木曜日といえば、明日(11日)の朝のこと。
(実際は、もう「今日」ですけれど)
聞き漏らさないように、前のお話のメモを
見直すことにしました。
ひっかかったことは、乗っていた船のこと。
よく知られたもののように、名前をいいました。
「第103号哨戒艇」・・・・量産された哨戒艇の一つ?
気になったのは沈没の日付。
やけに正確でした。「1945年1月12日」。
理由は、個人生活にかかわる記念日だ
そうですけれど。
ネットで調べて驚きました。
ちゃんと載っているのです。
しかも、この船は、同型艦が一つもないのです。
それもそのはずです。
アメリカの船。AM9 FINCH。
哨戒艇(AUXILIARIES-MINE SWEEPERS.)です。
しかも、沈没したあと、改造したものでした。
AM9 FINCHが製造されたのは、1918年9月10日。
日本軍の攻撃を受けて沈没したのが、1942年4月11日。
マニラ沖ジャビデ港でのこと。
5月に浮揚?日本海軍第103工作部が修理。
1943年4月1日に第三南遣艦隊に編入。
このときに、「哨戒艇第103号」と改名。
詳しくは、ココをクリック。
ちなみに、戦利艦の哨戒艇は、101号から
109号まであったのです。
そういう経歴の船に、Nさんは配備されたのですね。
その後のことですが、Nさんの話のとおり、
1945年1月12日に、ベトナム南部の
ファンリ沖で、アメリカ海軍空母艦載機の
空襲により撃沈されたとあります。
排水量は、980トン
全長は、56.2メートル。
全幅は、10.08メートル。
乗員は70名。
装備は、8cm単装高角砲2基と爆雷48発
Nさんは、空襲をうけたとき、船倉の
弾薬をはこびに降りたといっていました。
それは、この高角砲の砲弾だったのです。
船の写真があれば、もっと思い出して
もらえるのでしょうけれど。
海軍二等兵曹Nさんの「履歴書」 ― 2009/06/11

6月11日の朝、約束通り、事務所でNさんと出会いました。
「持ってくる」という品物は、茶色の封筒に入った「履歴書」でした。
茶封筒には、「海軍二等兵曹○○○○」の
文字が墨で大書されていました。
裏面には、
「 内容物件
携帯履歴
携帯給与通牒
身分証明書
考課表
公務羅病証明書」
と書かれています。
ご本人によれば、「これを持って残している人は少ない」そうです。
「船が沈没する際に、これだけ持って出た」とも。
もちろん、私は見るのは、はじめてのことです。
写真の履歴書には、
「第103号哨戒艇乗組ヲ命ズ」の
文字も見えます。
そこで、この艦艇の出自を
確認しました。もちろん、ご存じ。
「そうそう、元はアメリカの船や」とのこと。
「持ってくる」という品物は、茶色の封筒に入った「履歴書」でした。
茶封筒には、「海軍二等兵曹○○○○」の
文字が墨で大書されていました。
裏面には、
「 内容物件
携帯履歴
携帯給与通牒
身分証明書
考課表
公務羅病証明書」
と書かれています。
ご本人によれば、「これを持って残している人は少ない」そうです。
「船が沈没する際に、これだけ持って出た」とも。
もちろん、私は見るのは、はじめてのことです。
写真の履歴書には、
「第103号哨戒艇乗組ヲ命ズ」の
文字も見えます。
そこで、この艦艇の出自を
確認しました。もちろん、ご存じ。
「そうそう、元はアメリカの船や」とのこと。
ウズラウメ??? ― 2009/06/11
「光州事件」@桐野夏生『ダーク』 ― 2009/06/11

桐野夏生の小説 『ダーク』を読んでいます。
文庫本をカバンに持ち歩いていて、
ようやく上巻が終わろうとしています。
そこにサプライズが待っていました。
1980年5月に韓国で起こった
光州事件が登場するのです。
不意打ちをくらった私は、
強い衝撃を受けました。
そういえば、同じ著者の『玉蘭』でも
コミンテルンが登場するという経験をしました。
それらは、決して偶然ではないのでしょうね。
隣国のいまだ生々しい歴史的事件を
小説に取り込むこの桐野夏生という小説家。
う~ん、スケールが大きい気がしますね。
市民側の犠牲者を数千人出して、
小説でも、血なまぐさい光景が遠慮なく描かれます。
しかし、その筆致は、妖しいまでに印象的です。
事件そのものについては、ここを参考にしてください。
文庫本をカバンに持ち歩いていて、
ようやく上巻が終わろうとしています。
そこにサプライズが待っていました。
1980年5月に韓国で起こった
光州事件が登場するのです。
不意打ちをくらった私は、
強い衝撃を受けました。
そういえば、同じ著者の『玉蘭』でも
コミンテルンが登場するという経験をしました。
それらは、決して偶然ではないのでしょうね。
隣国のいまだ生々しい歴史的事件を
小説に取り込むこの桐野夏生という小説家。
う~ん、スケールが大きい気がしますね。
市民側の犠牲者を数千人出して、
小説でも、血なまぐさい光景が遠慮なく描かれます。
しかし、その筆致は、妖しいまでに印象的です。
闇に沈む光州の街のあちこちに炎が見えた。光州が燃えている。街中に血と火薬と催涙ガスの臭いが充満し、叫び声がこだましていることだろう。怒りが剥き出しになって荒れ狂い、新たに生まれる恨みや悲しみが更に怒りを倍加する。そのエネルギーがどこまでも大きくなるのか、もう誰にもわからなくなっているに違いない。
事件そのものについては、ここを参考にしてください。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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