
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
J.S.Bach : Sonatas for violin & harpsichord BWV 1014-1019 ― 2009/06/23

バッハのヴァイオリンとハープシコードのためのソナタ。
病んだ神経を癒し、人間にとってなにか
とても大切なものに向かい合うことを求めている。
・・・そんな音楽に聞こえます。
たとえ、どういう形で演奏されたとしても。
また、車の騒音の中で聴こうとも。
病んだ神経を癒し、人間にとってなにか
とても大切なものに向かい合うことを求めている。
・・・そんな音楽に聞こえます。
たとえ、どういう形で演奏されたとしても。
また、車の騒音の中で聴こうとも。
グザヴィエ・ジラール『マティス - 色彩の交響楽』 ― 2009/06/23

マティス。
とても楽天的で鮮やかな作品を残した作家。
だから、成功に包まれた華麗な人生。
陽気で、あっけからんとした人柄
そんなイメージをもっていました。
この本は、マティスがどのような道筋をへて、
マティスになっていくのかが、
わかって興味は尽きません。
印象に残った文章はつぎのもの。
人間観が豊かになった気がしませんか?
複製を一枚張っておきたい気がします。
『夢』(1940)なんかがいいのですが。
とても楽天的で鮮やかな作品を残した作家。
だから、成功に包まれた華麗な人生。
陽気で、あっけからんとした人柄
そんなイメージをもっていました。
この本は、マティスがどのような道筋をへて、
マティスになっていくのかが、
わかって興味は尽きません。
印象に残った文章はつぎのもの。
(マティスの)生涯を辿ってみると、いわゆる「革命家」というにはおよそそぐわない冷静で落ち着いた人間像が浮かび上がって来る。その作品においては、きわめて大胆な、時に激越なまでの試みをも辞さないマティスだが、その人柄は、既成の体制に激しく抵抗して破壊と異議申し立てに熱狂する革命家、例えばクールベやヴラマンクなどとはおよそ違っている。彼は革命家であったにしても、沈着冷静な醒めた革命家であり、日常生活においては何よりも秩序を重んじる健全な常識家であった。
人間観が豊かになった気がしませんか?
複製を一枚張っておきたい気がします。
『夢』(1940)なんかがいいのですが。
「少飛修練之地」の碑@大津市 ― 2009/06/23
「少飛修練之地」と刻まれた碑。
京阪電車の線路をはさんで、
大津市役所のほぼ正面にあります。
公の解説文などのパネルはありません。

「少飛」?
今の私たちでは、すぐに思い浮かばない名称です。
その下には、「十六期生会」の文字。
つまり、この碑は、そこで修練をうけた人々が、
自分達だけの記念碑として建てたもののようです。
実際、ここを通過する人は、毎日多数に及びます。
しかし、ほとんど意識されることはありません。
「少飛」とは、少年飛行兵のことです。
この地に存在していたのは、「大津陸軍少年飛行兵学校」。
旧陸軍はこのような学校をもう一つ、大分にもっていました。
この碑以外に、山手に「若鷲の碑」が建てられています。
そこには、飛行兵学校の沿革が刻まれています。
ここをクリックしてくだされば、→碑文の内容がわかります。
私は、碑や碑文を出発点にして、
この地でなにが行われていたのか、
知りたいと思うのです。
京阪電車の線路をはさんで、
大津市役所のほぼ正面にあります。
公の解説文などのパネルはありません。

「少飛」?
今の私たちでは、すぐに思い浮かばない名称です。
その下には、「十六期生会」の文字。
つまり、この碑は、そこで修練をうけた人々が、
自分達だけの記念碑として建てたもののようです。
実際、ここを通過する人は、毎日多数に及びます。
しかし、ほとんど意識されることはありません。
「少飛」とは、少年飛行兵のことです。
この地に存在していたのは、「大津陸軍少年飛行兵学校」。
旧陸軍はこのような学校をもう一つ、大分にもっていました。
この碑以外に、山手に「若鷲の碑」が建てられています。
そこには、飛行兵学校の沿革が刻まれています。
ここをクリックしてくだされば、→碑文の内容がわかります。
私は、碑や碑文を出発点にして、
この地でなにが行われていたのか、
知りたいと思うのです。
神風特攻隊で戦死:「故海軍少尉」の墓碑@大津市 ― 2009/06/23
大津市北部の民間墓地で、
「海軍少尉」の墓碑に出会いました。
手前の二つの墓碑の左の方です。
右には「故海軍上等飛行兵曹」の墓碑も見えます。
(ご兄弟なんでしょうか。お気の毒に思います。)
「海軍少尉」の墓碑の側面ですが、
なにかが塗り込まれているようで、
(灰色の土かカビなのか)
すべての文字が判読できません。

一行目に刻まれた「神風」の文字は、
私の目を釘付けにするのに十分でした。
ちなみに、大津市には、つぎの三つの
施設が存在していました。
①大津陸軍少年飛行兵学校
②大津海軍航空隊
③滋賀海軍航空隊
詳しくご存じの方、連絡いただければ幸いです。
「海軍少尉」の墓碑に出会いました。
手前の二つの墓碑の左の方です。
右には「故海軍上等飛行兵曹」の墓碑も見えます。
(ご兄弟なんでしょうか。お気の毒に思います。)
「海軍少尉」の墓碑の側面ですが、
なにかが塗り込まれているようで、
(灰色の土かカビなのか)
すべての文字が判読できません。

昭和二十年四月六日 神風特別攻撃
●●特攻隊として南西諸島方面●戦死
一行目に刻まれた「神風」の文字は、
私の目を釘付けにするのに十分でした。
ちなみに、大津市には、つぎの三つの
施設が存在していました。
①大津陸軍少年飛行兵学校
②大津海軍航空隊
③滋賀海軍航空隊
詳しくご存じの方、連絡いただければ幸いです。
暑いときには赤い花~ ― 2009/06/23

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント