お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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礫川全次『大津事件と明治天皇 封印された十七日間』(批評社)2009/06/25

礫川全次『大津事件と明治天皇 封印された十七日間』(批評社)
礫川全次。
この方の名前は、《Koishikawa Zenji》と読むそうです。
肩書きは、ノンフィクションライター。

『大津事件と明治天皇』は1998年出版。
比較的新しいものです。

大津事件は、1891(明治24)年5月11日に発生。
ロシア皇太子ニコライが、大津市で警備担当の警官の
津田三蔵に切りつけられ、負傷した事件です。
ニコライは親善のために訪日した最中のことでした。

タイトルに、「・・・と明治天皇」と着いています。
ここに、この著作のミソがあるわけです。
大津事件で犯人を不敬罪で死刑にせず、
憲法と法律の規定に従って、
無期懲役にした黒幕はだれなのか?
児島惟謙は単なる演技者の一人であり、
山県有朋こそ、その人物。
天皇と宮中勢力が、この事件をきっかけに、
政治へ介入するのを藩閥政治のドン・
山県有朋が阻止した・・・およそそういう内容。

あっという間に読み終えることができる
わかりやすさです。

この本が支持されているのかどうか、
私にはわかりません。
しかし、とても刺激的で興味深い。
たとえば、大逆事件との関係などは、
そうでした。

視点を変えてくれる新鮮な本は、
頭脳の活性化にはいいのです。

ところで、三井寺山内にある
西南戦争の碑が、大津事件から
46年後に移設されたことが
文献をひいて、書かれています。
1937年のことですね。
その経過や理由は書かれていません。
少し気になりました。
・・・私は、大津人ですから。

東国原知事の「総裁」要求事件は時代の象徴として記憶に残るかも知れません2009/06/25

大きな余波を生んでいます。

「解散・総選挙」が長期にわたって伸ばされているなかで、
首相がやめていったり、野党党首が変わったり、
特筆すべき事件には事欠きませんでした。
しかし、東国原知事が自民党の出馬要請に
総裁を要求したという事件は、ユニークさ、
意外性、話題性としては一番だと思います。

そもそもなにが起きたのか。
時事ドットコムによれば、以下のようです。

 自民党の古賀誠選対委員長は23日、宮崎県庁で東国原英夫知事と会談し、「今の自民党にない新しいエネルギーが欲しい」と次期衆院選への出馬を要請した。これに対し、知事は「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」と条件を提示し、即答を避けた。

もう少し先も重要かも知れませんね。

また、知事は、先に全国知事会がまとめた直轄事業負担金の廃止などを柱とする提言を衆院選の政権公約(マニフェスト)に盛り込むことも要求した。提言は地方分権改革の一環として、国と地方の税源配分を現在の6対4から5対5にすることや、国の出先機関の廃止・縮小なども明記。直轄事業負担金制度廃止をめぐっては、民主、公明両党が前向きだが、自民党は慎重だ。
 古賀氏は知事の条件提示に対し、「話は一応聞いた」と述べるにとどめた。会談では、具体的な選挙区に関する言及もなかったという。
 会談後、知事は記者団に対し、自民党の現状について「体質を変えない限り国民の支持を得られない。外部から新しい風を入れて、血液を入れ替える覚悟が必要だ」と指摘。その上で、「(条件を)実行すると約束していただけるのであれば、何らかの政治行動は取らないといけない」と述べ、国政転出への意欲をにじませた。
 一方、古賀氏は「いま総選挙で民主党に政権を渡すわけにはいかない」と語り、知事が出馬要請を受諾することに期待を示した。
 関係者によると、古賀氏は同日夜、宮崎市内のホテルで知事と会食した。 
 ただ、党総裁公選規程によると、総裁選への出馬は党所属国会議員であることが条件。党内では知事の提示を全面的に受け入れるのは困難との見方が多い。これに関し、細田博之幹事長は同日夜、都内で記者団に対し、「知事が総裁候補を条件にしたのは、(出馬打診を)断るための冗談だろう」と述べた。
 同党は昨年、政界引退を表明した中山成彬前国土交通相の後継候補として、知事に衆院宮崎1区からの出馬を要請したが、断られた経緯がある。(2009/06/24-01:03)

かなり、詳しく報道されていますね。

会談後の東国原知事の記者会見も注目です。

東国原知事の発言要旨
 宮崎県の東国原英夫知事が23日、自民党の古賀誠選対委員長と会談後、記者団に語った発言要旨は次の通り。
 -自民党からの衆院選出馬要請への対応は。
 今回は一応お伺いしたという立場だ。私としても提案、要望は出した。一つは、全国知事会がまとめたマニフェスト(政権公約)を一言一句漏らさずに自民党のマニフェストに盛り込むことを約束すること。もう一つが、わたしを次期総裁候補として次期衆院選を戦う覚悟があるかということだ。
 -古賀氏の反応は。
 「話は一応聞いた」という反応だった。
 -この2点が受け入れられれば出馬するのか。
 マニフェストに盛り込んで、4年間で実現、実行すると約束するなら、何らかの政治行動は取らないといけないと思っている。
 -総裁候補の条件が受け入れられないと、出馬しないのか。
 そうだ。自民党がどう変われるか、変革されるのか、一番大切な時期だ。この国が変わるか変わらないかの分水嶺(れい)で、ある意味、千載一遇のチャンスだ。政党、政権与党が変わらないと国は変わらない。政権与党が国民の目線と違い、意識が乖離(かいり)している。地方にいてそう実感している。党の体質を変えていかないと国民の支持は得られない。そのためにどうするかを提案した。
 -いつから首相に就任したいと。
 もともとあった。この国をどうにかしないといけない。地方が抱える諸問題、行政課題は大変だ。それを考える党になってほしい。党の自浄能力が欠落しているように映る。だから、党の内部を変えるのではなくて外部から新しい風を入れて、血液を入れ替える覚悟が必要だ。そういう覚悟を国民に示すべき時期じゃないか。党の内部でのマイナーチェンジはもう通用しない。
 -麻生太郎首相では駄目なのか。
 それは国民や自民党議員が決めることだ。
 -県民の支持は得られるか。
 これから説明しないといけない。意見も聞いてみないと分からない。
 -どの党からの依頼も同じような回答か。
 私の提案、提言をのんでいただけるなら、政党は関係ない。(2009/06/23-19:55)

この事件そのものについての評価は、民主党幹部がいいところを突いていると思いました。

(民主党)選対幹部は「(総裁候補にと)言う方も言う方だが、言われる方も言われる方だ。自民党はピエロだ」とあきれ気味に語り、国対幹部は「古賀氏ははらわたが煮えくり返っているだろう。首相も哀れだ」と述べた。 (2009/06/23-20:30)

なんとなく、明日はわが身的な同情心ものぞきます。

私も、政党の値打ちがどれだけ下がっているのか、と
思わざるをえません。

問題の中心は、東国原知事がどれだけ真剣に言ったか
どうかにあるのではないと思います。
政権党の大幹部が依頼に行ったという事実の重大さ、
そして、突きつけられた条件の無礼さ、大胆さ、
それらが合わさって、時代を象徴する事件になる
そんな気がするのです。
選挙戦への影響とは別の問題として。

ライナー指揮のバルトーク『管弦楽のための協奏曲』2009/06/25

ライナー指揮のバルトーク『管弦楽のための協奏曲』
バルトークの『管弦楽のための協奏曲』。
最初に聴いたのは、(レコードですが)
セル指揮のクリーヴランド管弦楽団。
(ブーレーズ?NYフィル?だったかな?)

シニカルで攻撃的な音楽という印象でした。
つまり、感傷的にもたれかかれる音楽では、
ないということです。

今日車に積んだのは、この曲のCDでした。
ライナー指揮シカゴ管弦楽団。
1955年10月22日の録音。

Roger Dettmer(Music Editor,Chicago's American)の
ノートを読んで、バルトークとライナーの強い絆を感じました。

バルトークとライナーは子弟の関係にありました。
1905年に最初に出会ったとき、バルトークは23歳、
ライナーは17歳。ブダペスト・アカデミーでのことです。
それ以来、音楽を通じて暖かい関係が続きます。
ライナーは、バルトークの音楽活動を支援し、
初演をするのです。

第一次世界大戦と第二次世界大戦をつうじて、
ハンガリーの運命が愛国者バルトークに暗い影を
落としていきます。
そして、ナチスの占領とともに、バルトークは
アメリカに拠点を移します。
待っていたのは、窮乏でした。
誇り高く、人付き合いの悪いバルトークは、
自己救済の能力を欠いていました。
それを救うために、クーセヴィツキー財団に
手を回したのが、ライナーでした。
この『管弦楽のための協奏曲』の作曲を委嘱させ、
その作曲料で生活が立つようにしたのです。

両者の関係を考えると、
このCDは、スペシャルなのですね。

ともかく、20世紀の作曲家や演奏家は、
戦争と切り離せない運命にあったのです。

神風特攻「菊水第一号作戦」の犠牲者の墓碑2009/06/25

「草薙」の文字(神風特攻第一草薙隊)
旧大津陸軍墓地でやったように、 一人ひとりの墓碑から、可能な限り、 その人の生き様や死の模様を、 読み取ろうとしています。
先日ご紹介した「神風特攻隊」員の墓碑(大津市穴太)から、 はじめたいと思いました。
ご遺族のお話をお聞きするのが いいのでしょうけれど。

碑文で読み取れたのは、以下の文字でした。

昭和二十年四月六日 神風特別攻撃
●●特攻隊として南西諸島方面●戦死

アンダーラインの箇所を拡大したのは、上の写真です。

私は、日付からヒントを得ようと調べ始めました。

最初にわかったことは、この日付が、
「菊水第一号作戦」の開始日にあたることです。
この作戦は、沖縄への連合国の侵攻を阻止するのが目的。
戦艦大和も出撃した有名な作戦でした。

「菊水作戦」は第一号から第十号まで行われました。
第一号 1945(昭和20)年4月6日から11日
第二号 同年4月12日から15日
第三号 同年4月16日から17日
第四号 同年4月21日から29日
第五号 同年5月 3日から 9日
第六号 同年5月11日から14日
第七号 同年5月24日から25日
第八号 同年5月28日から29日
第九号 同年6月 3日から 7日
第十号 同年6月21日から22日

「菊水第一号作戦」に参加した海軍の特攻隊名。
神風特攻忠誠隊
神風特攻勇武隊
神風特攻第三建武隊
神風特攻第17神剣隊
神風特攻第一筑波隊
神風特攻第三御楯252隊
神風特攻第三御楯601隊
神風特攻第201彗星隊
神風特攻菊水天山隊
神風特攻第三御楯天山隊
神風特攻第一八幡隊
神風特攻第一護皇白鷺隊
神風特攻第一正統隊
神風特攻第一八幡護皇隊
神風特攻第一草薙

ゼロからでない場合は、読み取りは可能です。
写真の文字は「草薙」ですね。

やっと、入り口まで来たようですね。

神風特攻「草薙隊」について知ることができました2009/06/25

草薙隊員の墓碑のある墓地から琵琶湖が見えます
私が京阪穴太駅から山手に広がる墓地を
歩いたのは、2008年の11月のことでした。
山の上につづく広い敷地に驚くばかりでした。

上り坂の途中から振り返ると、
琵琶湖が眼下に広がります。
(上の写真がそれです)

時間が限られていたので、戦没者の
墓碑を見つけては、急いで写真を撮りました。
そのとき偶然、「神風特攻隊」と刻まれた
「故海軍少尉中西三津夫之墓」を見つけました。



それから半年以上たつ今日、左の碑文から
「草薙隊」の文字を判読できたのです。
その経過は、前の日記のとおりです。

では、「草薙隊」とはどういう隊だったのでしょうか?

これが次の疑問です。
調べると、豊田市に拠点があったことが分かりました。
このサイトの記事によると以下のようです。

1940(昭和15)年に、伊保原地区に
民間の試験飛行場が出来ました。
1942(昭和17)年、名古屋海軍航空隊が併設されます。
1944(昭和19)年、艦上爆撃機の訓練が始まるとともに、
滑走路の拡張が行われます。
1945(昭和20)年4月、この訓練生で、「草薙隊」が
組織され、沖縄へ神風特攻隊として送られました。

「草薙隊の碑」も出来ているそうです。

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑
 此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成サレ四月五日十二日の両日各二十機ノ九九式艦上爆撃機ハ鹿児島県国分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 同月六日十二日の三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也
  昭和四十七年四月吉日 豊田海友会

上に紹介したサイトを読むと、怒りがこみ上げてきます。

「まともな機で出撃したい」・・・N少尉もそう思ったのでは
ないでしょうか。

大津市→沖縄→豊田市と一つの墓碑から、
1945年の戦争の素顔が浮かび上がってきます。

これはなにバナ??ご存じお方いらっしゃいますか?2009/06/25

これはなにバナ??
遠目にも目立ちます。
少しめんどうでしたけれど、
迂回して、この花を撮ることにしました。

去年も咲いていたのでしょうか。
記憶にありません。

久しぶりに花に刺激されました。

名前分かる方、いらっしゃいますか?

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)