お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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レイテ島のたたかい(1944年10月)の戦死者の墓碑2009/07/01

レイテ島のたたかい(1944年10月)の戦死者の墓碑
かつて大津市に衛戍地をおいた陸軍歩兵第九聯隊
その戦歴と重ねて、個人墓碑の碑文を読んでいくと、
どういう流れのなかで、戦死という痛ましい事件が
起こったのかがわかってきます。

私は、そのたびに、ためいきとも、悲嘆ともつかない
声をあげることになります。

すこし、聯隊と戦死について振り返ってみると、
明治7(1874)年に創設された聯隊が
最初の戦死者を出したのは、1877年。
日本人同士が殺しあった西南戦争のなかでした。
この内戦での戦死者の墓碑は、現地、
熊本・七本官軍墓地(下の写真)などで見ることができます。



海外へ出征した最初は、日清戦争でした。
しかし、遼東半島に上陸したときには、
下関条約が締結され、正式な戦闘には不参加。
守備隊として駐屯したのみでした。
しかし、恐るべきは疫病。
つぎつぎとコレラ、赤痢、腸チフスなどの病に倒れた兵士は、
旧大津陸軍墓地に(下の写真)200名近くが眠っています。



正規の外国軍と戦った最初は、
日清戦争ではなく、日露戦争でした。
旧陸軍墓地には、階級別に4柱の合葬碑があります。
下の写真は、そのうちの2柱です。



日露戦争戦死者の個人墓碑は民間墓地にあります。
大津市では、四角錘型ですが、
高島市にあるもの(下の写真)は、砲弾型をしています。



その後、聯隊は、中国戦争に参加。
帰国後に、フィリピン戦線に投入されるのです。
最後のたたかい、そして、全滅したのは、
昭和19(1944)10月20日からはじまる
レイテ島のたたかいでした。

この最後の戦い(レイテ島のたたかい)で
戦死された若者の墓碑が、タイトルの写真です。
大津市内の民間墓地(岡山墓地)で見ることができました。
この墓地は、膳所烈士の墓碑があることでも有名です。

第九聯隊最後の地、そして、タイトルの若者が
戦死したレイテ島のたたかいについて、
わかる範囲で解説して、終わります。

レイテ島は、フィリピンの島です。
ここへ進出するアメリカ軍を迎え撃った戦いでした。
当初の計画は、フィリピンの中心ルソン島でした。
自軍の戦果を過大視した上層部が、レイテ島でも
陸軍による迎撃を決め、ルソン島の兵力もそこへ
集中したのでした。
しかし、輸送は失敗におわり、食料も届かず、
アメリカ軍に追い詰められ、残った戦闘部隊が
餓死するような悲惨な最期となった島でした。

フィリピン「防衛」にあたっていたのは、第十四方面軍。
その指揮下で、レイテ島を管轄していたのは、第35軍。
しかし、実際に、この島にいたのは、第十六師団のみでした。
第九聯隊は、この第十六師団に配属されていました。
第十六師団の兵力は、約2万人。

アメリカ軍は、10月20日に上陸。
わずか1時間の戦闘で、第十六師団は後退。
翌21日は、飛行場付近で防衛しましたが、
戦車や火炎放射器により、さらに後退を余儀なくされました。
師団の連隊長2名が戦死しました。
25日にはドラッグ方面のいた軍隊は全滅。
生き残った残存部隊は、増派された軍とともに
さらに悲惨な戦いを続けました。

一番上のタイトルの写真の墓碑を見れば、
「昭和19年10月25日 フィリッピンレイテ島戦死」
と刻まれています。
第十六師団でこの戦いに参加したのは、
18,608人。戦死は18,028人。
全滅でした。
そのうちの一人の方の墓碑を見つけたわけです。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)