お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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新しい「忠霊塔」を見て2009/08/09

大石中町の「忠霊塔」
なにげなく、ひとつにくくってしまうけれど、
そこには大きな違いがあると私には思える。
ーーー忠魂碑(忠霊塔)と戦没者慰霊碑。

そんなことを考えるようになったのは、
大石中町で「忠霊塔」を見つけたとき。
礎石の部分は古びているけれど、
墓石にあたる「塔」は新しい。
そして、「塔」をとりまく柵は、
砲弾型の柱。
再建されて、10年程度の新しさ。
なのに・・・という思いが私に生まれる。

靖国神社は、戦死した若者を、
宗教の違いを無視して、ひとつにくくる。
そして、神に変え、英霊として祀る。
英霊は、天皇を護り、戦った忠民。
個性を消し去った名称。
そこには、侵略戦争の反省など
入る余地がない。

戦死した若者には、
一人一人の顔があり、
その死を悼む家族の心情がある。
靖国神社に祀られることで、
癒しきれない傷がある。
個々人の墓碑から、私が感じるのは
そういう一人一人の死への思いである。

地域には、日清日露戦争後、
「忠魂碑」が建てられた。
それは、戦死の意味を一元化し、
天皇に忠実な魂として死に
赴くように鼓舞してきたのだろう。

大石中町で「忠霊塔」を見つける。
それは、「忠魂碑」と同じ流れのもの。
塔を取り巻くのは、砲弾を模した柱。
新しい金属プレートに張られている。
そこには、この町の戦死者の名が
一人一人刻まれている。
いつ建てられたのだろう。

同じようなプレートは、
小松でも見つけた。
それは、「忠魂碑」ではなく、
「戦没者慰霊碑」に張られていた。

「忠魂」から「戦没者」へと
くくられ方がかわっていく。
それはかつての戦争をどう見るか
という深部の認識にかかわること。
私は合葬するなら「戦没者」がよいと思う。
一人一人の死として、
後世に伝えるプレートを読んだとき、
戦争がもたらす死が、
美化された忠魂の死ではなく、
具体的な個々の若者の死だと認識できる。

遺族の思いが感じられる個人碑は、
永遠の存在ではない。
民間墓地にある戦死者の墓碑は、
無縁化していけば、どんなりっぱな
ものも、隅に追いやられ、
もはや名前さえ確認できなくなる。

ならば、プレートが今後、
大切なものとなっていくのだろう。
平和の礎と同様に。
一人一人の若者の死として
戦死を受け止めるならば。

そんなことを考えたのだ。

大石村の12名の戦死者2009/08/09

大石村の戦死者(忠霊塔のプレート)
大石村は、昭和26(1951)年に大津市に合併。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)

その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。

日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。

階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。

後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。

「戦没者合祀氏名」を刻む銅版2009/08/09

「戦没者慰霊碑」(大津市北小松)
2006年に志賀町は大津市に合併した。
志賀町は小野、和邇、木戸、小松の
4つの小学区から成っているが、
これらはさらに小さく分かれるらしい。
たとえば、北小松と南小松。

北小松は、琵琶湖に沿って
高島市に向かえば、大津市の最北端。
その地に、「戦没者慰霊碑」がある。
碑には、りっぱな自然石が使われている。

この碑は、人間を英霊でも忠魂でもなく
一人の人間として慰霊した碑に見える。



慰霊碑の背面に回ると、
「北小松戦没者合祀氏名」のプレートがあった。
死亡年月日も年齢も死亡場所もない。
また、階級名もない。
72名の氏名だけが
「イロハ順」に刻まれている。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)