お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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《ソ連スチャーン地區ニ於イテ戦歿》した陸軍上等兵の墓碑2009/09/08

《ソ連スチャーン地區ニ於イテ戦歿》
 旧日本軍が侵攻し、戦場とした地域は、広大なものです。ハワイを含む太平洋上の島々、ベトナム、ビルマ、インドネシア、シンガポール、インド、中国、そしてソ連。
 その先々で、彼我の戦死者を築いてきたのです。
 この墓碑には、今では存在しない地名が刻まれています。
 ソ連は1991年に崩壊しましたし、「スチャーン(Сучан)」は、「パルチザンスク(Партизанск)」と名前を変えています。ちなみに、沿海州とよばれた地域にある小さな都市です。
 死亡年月日は、昭和21(1946)年1月10日」とあります。日本が、無条件降伏(1945年8月15日)したあとのことです。戦闘を継続されていたのか、それとも、俘虜となって抑留中のことだったのか、詳しいことは墓碑からは、わかりません。
 お気の毒なことです。
 しかし、過去のこととすますわけにはゆかなくなっています。
 ネットで「海外派兵」を検索すると、日本共産党中央委員会のサイトで、つぎのような記事(9/4付)が出てきました。途中からですが、引用します。
・・・防衛省が小池氏に提出した資料によると、テロ特措法と新テロ特措法に基づくインド洋への派兵(2001年11月~09年8月現在)では、民間技術者が25回、のべ77人、イラク特措法に基づく派兵(03年12月~08年12月)では、14回、のべ39人が海外に派遣されています。
 防衛省は「民間技術者が海外で作業を行ったと推測されるが、確認作業に相当の時間がかかるものなどは人数に含めていない」としており、今後増える可能性もあります。
 派遣の目的は、インド洋派兵では、米軍などへの補給活動を行っている海上自衛隊艦船の器材の修理・点検となっています。
 イラク派兵では、「車両搭載対策器材本体の据え付け・調整」「検査装置の定期巡回整備」など。「車両搭載対策器材」「検査装置」とは、イラク南部サマワに派兵された陸上自衛隊のテロ対策機器とされています。クウェートを拠点に武装米兵らを空輸した航空自衛隊C130輸送機のエンジン点検のためにも派遣されています。
 防衛省の説明では、派遣場所は海自艦船の寄港地やクウェートとされています。
 政府は、民間技術者の派遣について防衛省と企業との契約に基づいて行っているとしています。契約企業は業務命令によって事実上強制的に技術者を派遣することになります。
 民間技術者に犠牲が出た場合の補償についても政府は、企業側が行うという無責任な態度をとっています。

 この記事は、「民間人をも大変な危険にさらす、憲法違反の自衛隊海外派兵は直ちにやめるべきです」と結ばれています。
 まったくそのとおりだと思いました。
 国会では、民主、国民新党、社民の間で、連立協議が大詰めを迎えています。不一致点は、、安全保障と外交問題にあると報道されています。いまの日本の海外派兵の主な推進者は、アメリカ政府ですから、それに対して、どういう姿勢を示すかというのは、政権の性格を鮮明にする重大な問題です。
 私は前向きの変化を期待したいと思います。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)