お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大津市と高島市で「忠魂碑」を訪ねています ― 2009/09/10
以前、高島市で、大きな「忠魂碑」を見つけました。大字今津の共同墓地の横で、自衛隊の今津駐屯地を見下ろす位置にありました。
上の写真がそれです。
それから、しばらく、そのことを忘れていました。
ところが、先月から、突然「忠魂碑」探しがマイブームとなりました。
今年の夏、旧志賀町の木戸学区で戦死者の墓碑を見学していたときのことです。林のなかを歩いていると、ふいに広い空間に出ました。そこに、草生してはいましたが、りっぱな「忠魂碑」があったのです。人影はなく、自分ひとりだけ、戦前にタイムスリップした気分を味わいました。それが、きっかけでした。
木戸で見つけたあと、ネットで検索して、近隣に「忠魂碑」がないか探しました。最初にヒットしたのが、酒井神社のホームページで、下阪本学区の「忠魂碑」の写真と記事でした。乃木希典大将の文字が刻んであるりっぱなものとのことでした。
そのものの写真はありましたが、近隣の風景はのっていなくて、同じ市内に住みながら、探すのに苦労しました。結局、支所を訪ねて、支所前にいた職員と植木の手入れをしていた男性に教えてもらったのです。実は、目の前にあったのです。
その男性は、熱弁をふるってくれました。おかげで、坂本の「忠魂碑」の場所や「昔は、学区ごとにあった」こともわかりました。同じ日に坂本学区の「忠魂碑」を探し出すことができました。
不思議なことに、近隣の方でも、すべての方が知っているわけではなかったのです。
その後、旧志賀町の「戦没者慰霊碑」や「慰霊塔」、大石学区の「忠霊塔」、瀬田学区の「忠魂碑」を見つけました。
先日、探す効率を上げようと、歴史博物館に行って見ました。しかし、渡された石碑リストには、「忠魂碑」は、見事に脱落しています。戦前の軍国主義の遺跡には、行政はかかわりたくないとでも言うように。
あきらめて、自力で探すことにしたのです。
次にネットで見つけたのは、和邇学区にある「忠魂碑」の記事でした。「天皇神社」にあると書かれています。この神社の所在を示す地図も載っていましたが、すぐにわかる場所にありました。現に、その近くに車を何度も止めたことがあったからです。
さて、どんな「忠魂碑」なのでしょうか。
上の写真がそれです。
それから、しばらく、そのことを忘れていました。
ところが、先月から、突然「忠魂碑」探しがマイブームとなりました。
今年の夏、旧志賀町の木戸学区で戦死者の墓碑を見学していたときのことです。林のなかを歩いていると、ふいに広い空間に出ました。そこに、草生してはいましたが、りっぱな「忠魂碑」があったのです。人影はなく、自分ひとりだけ、戦前にタイムスリップした気分を味わいました。それが、きっかけでした。
木戸で見つけたあと、ネットで検索して、近隣に「忠魂碑」がないか探しました。最初にヒットしたのが、酒井神社のホームページで、下阪本学区の「忠魂碑」の写真と記事でした。乃木希典大将の文字が刻んであるりっぱなものとのことでした。
そのものの写真はありましたが、近隣の風景はのっていなくて、同じ市内に住みながら、探すのに苦労しました。結局、支所を訪ねて、支所前にいた職員と植木の手入れをしていた男性に教えてもらったのです。実は、目の前にあったのです。
その男性は、熱弁をふるってくれました。おかげで、坂本の「忠魂碑」の場所や「昔は、学区ごとにあった」こともわかりました。同じ日に坂本学区の「忠魂碑」を探し出すことができました。
不思議なことに、近隣の方でも、すべての方が知っているわけではなかったのです。
その後、旧志賀町の「戦没者慰霊碑」や「慰霊塔」、大石学区の「忠霊塔」、瀬田学区の「忠魂碑」を見つけました。
先日、探す効率を上げようと、歴史博物館に行って見ました。しかし、渡された石碑リストには、「忠魂碑」は、見事に脱落しています。戦前の軍国主義の遺跡には、行政はかかわりたくないとでも言うように。
あきらめて、自力で探すことにしたのです。
次にネットで見つけたのは、和邇学区にある「忠魂碑」の記事でした。「天皇神社」にあると書かれています。この神社の所在を示す地図も載っていましたが、すぐにわかる場所にありました。現に、その近くに車を何度も止めたことがあったからです。
さて、どんな「忠魂碑」なのでしょうか。
「天皇神社」(牛頭天王社)に忠魂碑はあるのか? ― 2009/09/10
ネットで検索して、近隣の忠魂碑を探し始めました。
下阪本の次にヒットしたのが、石山の忠魂碑でした。
しかし、手がかりが少なく、すぐに訪問することは断念。
つぎに見つけたのが、旧志賀町の和邇中にあるという「天皇神社」の忠魂碑の記事でした。
「石造美術紀行 石造美術の探訪記」というブログの下の一文でした
はたして、記事どおり「忠魂碑」があるのでしょうか。期待しながら、出かけて行くことにしたのです。
下阪本の次にヒットしたのが、石山の忠魂碑でした。
しかし、手がかりが少なく、すぐに訪問することは断念。
つぎに見つけたのが、旧志賀町の和邇中にあるという「天皇神社」の忠魂碑の記事でした。
「石造美術紀行 石造美術の探訪記」というブログの下の一文でした
和邇中天皇神社は和邇川北岸、琵琶湖を望む小高い台地にある。本殿は鎌倉末期正中元年(1324年)建造の古建築である。 社殿前の向かって左手、奥まった場所にある忠魂碑を挟んで東側に2基の石造宝塔、西側に層塔がある。「滋賀県観光情報」というサイトで、「天皇神社」を検索しました。そこには、次のような一文がありましたが、「忠魂碑」への言及はありませんでした。
県内に3棟(天皇神社・小野篁(たかむら)神社・小野道風(とうふう)神社の各本殿)しかない切妻造の本殿は、国の重要文化財で、鎌倉時代後期の建築です。
はたして、記事どおり「忠魂碑」があるのでしょうか。期待しながら、出かけて行くことにしたのです。
忠魂碑@天皇神社(和邇中) ― 2009/09/10
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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