お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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『南大萱史』(平成16年:南大萱史編纂委員会)2009/09/11

大津市立図書館で、A4版の『南大萱史』を見つける。地域史であり、寄贈図書である。そこには「西野墓地」や、「忠魂碑」の記述があった。
 わたしが瀬田小学校の隅で見つけた二つの建造物は、白く大きい霊廟のようなものが「忠魂碑」。青銅製の砲弾型碑が「軍人勅諭塔」だということである。
 私が注目したのは、「戦争犠牲者の葬送と慰霊」という章の次の三つの記述である。
 まずは、慰霊祭における忠魂碑の役割。
◇慰霊祭
 慰霊祭は公葬として行われた。瀬田町では年に一度忠魂碑(瀬田小学校の東敷地に現存)の前で執り行われた。この日は町長を始め在郷軍人会・婦人会・青年団等多くの人たちが参列し、町長と来賓の弔辞が捧げられ、戦没者の数だけローソクに火を灯し、揺れる炎に祈りを捧げ、その霊に頭を下げ冥福を祈った。
 つづいて忠魂碑そのものの歴史。
◇忠魂碑
 戦中から終戦直後、あの厳粛な慰霊祭が行われ、多くの参列者が涙した忠魂碑も半世紀を過ぎると、時の流れ以上の加速度で変化し、碑の背面に刻まれた「いわれ」や「ことば」の文字は総て削りとられている
 私が忠魂碑とまちがった軍人勅諭塔。
◇軍人勅諭塔(忠魂碑の南に聳える五角形の塔)
 一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
 一、軍人は礼儀を正しくすべし
 一、軍人は武勇を尚うべし
 一、軍人は信義を重んずべし
 一、軍人は質素を旨とすべし
      陸軍大臣 鈴木荘六 謹書
 軍人勅諭御下賜五十周年記念建立
       在郷軍人会瀬田分会
 と刻まれているが、「陸軍大臣・軍人勅諭・在郷軍人」の文字は、セメントを流し、塗り潰している。
 これらのリアルな記述によって、忠魂碑や慰霊がどう行われていたのか、そして、それらの碑は戦後どう扱われたのかがわかりました。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)