お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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日清戦争で亡くなった「軍夫」を記録する『高島郡史』2009/09/15

旧真田山陸軍墓地の「軍役夫」の墓碑
 引き続き『高島郡史』(大正15年)に掲載されている日清戦争の戦病死者の17名簿を見ながら、地域と戦争について考えてみたいと思います。
 最初に注目したことは、そこに1名の「軍夫」がいることです。
 名前は、中江幸四郎。「大溝町大字音羽」が出身地。「朝鮮平安道瀧川兵站病院」で、明治28(1895)年4月7日に亡くなっています。

 そもそも「軍夫」とはなにか?

 一ノ瀬俊也『旅順と南京』(文春新書)によれば、
 軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった。熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇う方が安上がりという意見を上申した師団もあった。かくして(1894年の)八月下旬以降各師団は大量の「人夫」雇用を開始した。結局日清戦争を通じて内地から雇用した軍夫は十五万三九七四人、清国・台湾にて現地雇用した人員は実に述べ一ニ一一万人余にのぼった。日本人軍夫は形式的に読法式(軍の規範である「読法」を朗読させる宣誓式)を済ませていちおう軍属の資格を備え、陸軍刑法の管轄に属した。
 日清戦争では、15万をこえる軍夫のうち、数千人という規模で戦病死しています。軍人より装備の劣る彼らが凍死する場合も多かったのですし、戦闘に巻き込まれる場合もありました。
 軍隊は彼らなしに戦えなかったにもかかわらず、彼らの存在は公式の戦史には刻まれることはありませんでした。もちろん、靖国神社に祭られることはありませんでした。
 『高島郡史』が、「軍夫」として参加した人の名前を、他の戦病死者とともに載せていることは、公平であり、大切なことだと思えるのです。

 写真は、中江幸四郎さんの墓碑ではありません。旧真田山陸軍墓地には、軍夫だけの墓地があります。その一部の写真です。

コメント

_ 中下 秀夫 ― 2011年10月15日 22時08分48秒

 当方、真田山陸軍墓地の保存を考える会の一員で中下秀夫と申します。中江幸四郎氏の墓は、墓石番号A-9-12の軍役夫、中江小四郎ではないでしょうか、死亡年月日も場所もご指摘の通りでございますので。

_ BIN★→中下秀夫さん ― 2011年10月21日 23時52分52秒

コメントとご指摘ありがとうございます。
音でいけば、koushirou も kosishirou も
変わりがありません。
同一人物というご指摘に、納得します。
今後とも、よろしくお願いします。

_ 中下 秀夫 ― 2011年11月23日 21時30分01秒

 軍夫大江幸四郎についてお尋ね致します。
 大溝町出身だということですが,町役場が軍夫の募集を行ったのでしょうか。
 それとも,官とは関係なく民間請負人による募集があったのでしょうか。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)