お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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中島峰夫『饗庭野 高校生のための社会科読本4』2009/09/16

中島峰夫『饗庭野 高校生のための社会科読本4』
 あいば野演習場(高島市)の歴史については、この本がお薦めです。
 高校の社会科教員の中島峰夫さんが編んだもので、演習場の起源から、(出版は2007年なので、この時点までの)8回にわたる日米合同演習まで、本文と資料がついています。
 本文は、戦前編(10章)と戦後編(22章)に分かれていて、読みやすく、網羅的でもあります。
 資料編は、自衛隊の編成や年表などです。
 まえにも紹介しましたが、今、あらためて興味のある方にお薦めしたいと思いました。
 自費出版なので、購入を希望される方は、ご本人まで連絡をということになりますが、私にメールいただければ、お伝えします。
 書店にもあるかも知れませんが。
 ちなみに、同氏には、『軍都・大津』(2000年)、『続 軍都・大津』(2002年)という著作もあります。

野生化したアライグマの爪あと??2009/09/16

この爪あとはネコか、アライグマか?
 先日、大津市の田上にある毛知比(もちひ)神社で、戦争の碑を探していたときのことです。

神社の柱を丁寧に撮る女性がいました。
不思議だったので、
「何を撮っているのですか」
とたずねました。
「アライグマの爪あとです」
という返事。え!?

 家で飼っていたペットが手に負えなくなり、逃がしたために野生化したアライグマがいるそうです。もともと凶暴で、雑食性のため、農作物などに被害がでているので、その調査をしているということでした。(林野庁の方なんでしょうか。)

 興味を覚えましたので、私も写真を撮りました。
 「これもそうですか?」
 「それは、ネコの爪あとかも知れません。
 ネコも(神社の柱に)登るのです。」
 「爪跡は4本?」
 「爪は5本なんですが、一つは隠れていて」
 「ネコの爪とどう区別するんですか?」
 「アライグマは執念深く(笑)上まで登りますが、
  ネコはそこまで登りません」

 写真の柱の爪はどっちなんでしょうね。

心にひっかかった容器 ~防火水槽~2009/09/16

戦前の「防火用水」
夏の一日のことです。時間を見つけて街を歩きました。
そして、このコンクリート製の容器を目にしました。
「防火水槽だ」と思いました。
でも、これが、どういう用途をもっていたか知りませんでした。
幼いときに、名前だけ教えてもらったのでしょうね。
それに、多数ありましたから、普通の存在。

夏の終わりに『戦争と市民』展を見に行きました。
大津市歴史博物館でやっていましたね。
そこで、これが空襲に備えて水を貯めた容器だと
知ったのです。

そういえば、めっきり見かけなくなりました。

これも、また戦争の遺跡です。

日清戦争で戦病死した高島郡(市)の17名の若者2009/09/16

高島市勝野(2008年6月)
 写真は、現在の高島市勝野。現在は「びれっじ」など新しい取り組みもありますが、由緒ある商店街です。もしかしたら日清戦争当時の姿の名残があるかも知れません。



 さて、引き続き『高島郡史』(大正15年)をもとにして、高島市で戦病死した人たちの姿を追っていきたいと思います。
 この本には、西南戦争、日清戦争そして日露戦争の戦病死者の名簿があります。西南戦争・日清戦争では、はっきり書かれていませんが、日露戦争の名簿には、項目「戦病死場所」に、「長嶺子(病死)」というように、病死と戦死の区別が明確にされています。
 これは、靖国神社との関係で出てくる区別かも知れません。
 日清戦争の戦病死者の名簿では、戦病死場所が「病院」とはっきり書かれています。これは、旧大津陸軍墓地の墓碑との違いです。同じ陸軍墓地でも旧真田山陸軍墓地の墓碑には、「病院」の文字がありましたが、旧大津の場合はありません。一切書かれていないのです。
 高島市の戦病死者17名中11名が「病院」もしくは「療養所」で死亡したとされています。
 内訳は以下のとおりです。病院名はそのままにしています。
 ○清国盛京省海城病院    2名
 ○金州沙家屯舎營病院    2名
 ○清国金州兵站病院     1名
 ○清国金州病院        1名
 ○牛馬頭患者宿泊所病院   1名
 ○朝鮮平安道瀧川兵站病院  1名
 ○台湾台北兵站病院      1名
 ○基隆兵站病院         1名
 ○旅順口日本療養所      1名
 同一の可能性がある病院もありますが、まずは区別しています。

 「所属部隊名」は、不明が6名と書かれています。今回私が2名(福井・日置)の方の所属部隊を見つけたので、実際は、名。したがって、残り13名の所属部隊が分かっています。
 その内訳は以下のとおりです。
 ○陸軍歩兵第九連隊       8名
 ○近衛歩兵第二連隊       1名
 ○工兵第四大隊          2名
 ○台湾守備歩兵第四連隊    1名
 ○軍夫                1名
 「兵種」と「階級」は、以下のとおりでした。
 ○軍夫       1名
 ○輜重輸卒    2名
 ○歩兵      13名
   二等卒4名、一等卒5名、上等兵3名、一等軍曹1名
 ○工兵       1名(上等兵)
 つぎに出身地。
 ①剣熊村
 ②海津村
 ③西庄村  1名 井花長太郎(蛭口)
 ④百瀬村
 ⑤川上村
 ⑥今津村
 ⑦三谷村
 ⑧饗庭村  2名 富田梅吉(饗庭)、内田検次郎(旭)
 ⑨新儀村  1名 大塚長次郎(太田)
 ⑩本庄村
 ⑪青柳村
 ⑫安曇村  3名 日置卯市(三尾里)、山崎松蔵(田中)、福井乙吉(常盤木)
 ⑬広瀬村
 ⑭水尾村  1名 吉田伊之助(宮野)
 ⑮大溝  5名 三矢松太郎(永田)、中村林造(勝野)、仁賀宗太郎(勝野)、島村幸太郎(勝野)、中江幸四郎(音羽)
 ⑯高島村  2名 奥村粂蔵(拝戸)、林甚蔵(畑)
 ⑰朽木村  2名 森岩五郎(栃生)、金子兼助(宮前坊)

旧大津陸軍墓地に眠る高島郡(市)出身の戦病死者は7名@日清戦争2009/09/16

日清戦争病死者の墓碑(高島市出身)
 『高島郡史』を繰っていると、旧大津陸軍墓地で、手がかりのなかった人たちの姿が少しづつ見え始める気がします。
 繰り返しご紹介していますが、旧大津陸軍墓地では、日清戦争期の戦病死者の墓碑を3箇所で見出すことができます。一つ目は、将校の墓地で、名の方の墓碑があります。二つ目は、下士官の墓地Bブロック。1柱除いて、すべて日清戦争期の墓碑で、14名の方の墓碑があります。最後は、兵卒の墓地Eブロック。ここには、207柱ありますが、1名を除く206柱までが日清戦争期に亡くなった兵卒の方の墓碑です。
 この墓地で、『高島郡史』に載っている17名のうち、名の方の墓碑を見つけました。うち2名は、所属部隊が「不明」とされていた方々で、この作業で、経歴の一端が埋められたことになります。
 旧大津陸軍墓地 Eブロックに眠る高島郡兵卒名
 ●陸軍歩兵二等卒  中村 林蔵
 ●陸軍歩兵二等卒  福井 乙吉(上の写真)
 ●陸軍歩兵上等兵  内田検次郎
 ●陸軍歩兵二等卒  奥村久米蔵
 ●陸軍歩兵一等卒  井花長太郎
 ●陸軍歩兵一等卒  日置 卯市
 ●陸軍輜重輸卒    富田 楳吉
 *記述は、大津市が作成した名簿のままにしています。
 しかし、「第九連隊」と所属が書かれているうち、1名(森岩五郎)の方の墓碑はありませんでした。私は、このようなことがとても気になる方なので、調べてみたいと思います。

Alexander Scriabin : Poeme-Nocturne,Op.612009/09/16

リヒテルのスクリャービン
 スクリャービンのPoeme-Nocturneを楽しめたのでブログに書く気になりました。とても失礼な話なのですが、心に入ってきそうにないので、この作曲家を選んでCDをかけたのです。
 少し疲れて、それでも深夜に仕事をしていたときに。
 でも、よかったんです。
 出だしを聞いて、武満徹さんのLitanyを思い浮かべました。武満さんの場合は、とても懐かしいメロディが続くのですが、スクリャービンの方は、もう少し無機的に聴こえました。
 深夜に聞くにはいいかもと、繰り返し聴いています。
 ピアノは、スビャトスラフ・リヒテル。

『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫)2009/09/16

『プーシキン詩集』金子幸彦訳(岩波文庫)
仕事の区切りをつけて、帰宅しようとしたとき、
ケータイが鳴りました。

「予防接種の予約をしたので、
 H君を病院に連れて行ってください。
 私は、これから会議。午後8時ね、よろしく」

病院で待つ時間に読めるものをと、
薄い文庫を手に取りました。それが、『プーシキン詩集』
原語の全集も持っていたのに、翻訳で読むのは、
淋しい気もしますが、仕方がありません。

パラパラ飛ばし読み。
「君よ、聞き給いしや」などという、
文語体の訳詩は好きではありません。
ときどき現代語に翻訳しながら、
読みました。

まだ覚えている詩もありました。

最後の「解説」を読んでいるとき、
不思議に心が熱くなりました。
露文に憧れた気持ちを思い出したからです。
エリツィンやプーチンの顔のおかげで、
忘れていた思いです。

「陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎」の戦歴2009/09/16

旧高島町の永田地区にある墓地
 高島市に合併された高島町。そこに、海洋センターがあります。上の写真の右手に写っています。写真の正面の少し大きめで、鋭くとがっている墓碑がありますね。「陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎墓」です。側面には、「明治二十九年八月建立」と彫られています。戦歴などが刻まれた面は、ほとんど読み取ることができません。



 『高島郡史』のおかげで、この方の「出身地」と「戦病死年月日」、「戦病死場所」がわかりました。 「出身地」は、「大湊町大字永田」「明治二十八年九月二十三日 牛馬頭患者宿泊所病院」で亡くなっています。
 ただ「所属部隊名」が「不明」とされています。これを少しでも明らかにしようと思いました。
 ヒントは「牛馬頭」という地名と死亡年月日です。《アジ歴》として知られるサイトで検索すると、おおよそのことがわかりました。それは、三矢松太郎が、近衛師団に所属し、台湾征服戦争に参加したということです。
 当時の高島郡(現高島市)で徴兵された若者は、歩兵ならば、第四師団(大坂鎮台を改称)歩兵第九聯隊に入隊したはずです。しかし、選ばれたものが、近衛師団に入隊したのです。
 たとえば、明治11(1878)年8月に起きた「竹橋事件」は、近衛兵の叛乱でしたが、処刑されたなかに、三添卯之助をはじめとする6名の滋賀県出身者(22~25歳)が含まれていました。
 ですから、三矢松太郎が近衛歩兵であることは、おおいにありえることです。



  近衛師団が、台湾に上陸したのは、明治28(1895)年5月29日のことです。上の記録によれば、近衛師団の本隊は、明治28年8月26日に、牛馬頭に達したとされています。三矢が病死したのは、9月23日に牛馬頭患者宿泊所病院ですから、矛盾しないのです。
 また、増援部隊は、9月には台湾に到着していません。
 第九聯隊は、明治28(1895)年12月まで遼東半島の守備についていて、大津市へ凱旋したのが年の暮れ。台湾への再出征したのは、翌年1月のことです。ですから、明治28年9月には、台湾にはいません。したがって、三矢は第九聯隊所属ではないはずです。
 このように、三矢松太郎を近衛兵と考える証拠は十分ありますし、旧大津陸軍墓地に墓碑がないことも説明がつきます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)