お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎」の戦歴 ― 2009/09/16
高島市に合併された高島町。そこに、海洋センターがあります。上の写真の右手に写っています。写真の正面の少し大きめで、鋭くとがっている墓碑がありますね。「陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎墓」です。側面には、「明治二十九年八月建立」と彫られています。戦歴などが刻まれた面は、ほとんど読み取ることができません。
『高島郡史』のおかげで、この方の「出身地」と「戦病死年月日」、「戦病死場所」がわかりました。 「出身地」は、「大湊町大字永田」「明治二十八年九月二十三日 牛馬頭患者宿泊所病院」で亡くなっています。
ただ「所属部隊名」が「不明」とされています。これを少しでも明らかにしようと思いました。
ヒントは「牛馬頭」という地名と死亡年月日です。《アジ歴》として知られるサイトで検索すると、おおよそのことがわかりました。それは、三矢松太郎が、近衛師団に所属し、台湾征服戦争に参加したということです。
当時の高島郡(現高島市)で徴兵された若者は、歩兵ならば、第四師団(大坂鎮台を改称)歩兵第九聯隊に入隊したはずです。しかし、選ばれたものが、近衛師団に入隊したのです。
たとえば、明治11(1878)年8月に起きた「竹橋事件」は、近衛兵の叛乱でしたが、処刑されたなかに、三添卯之助をはじめとする6名の滋賀県出身者(22~25歳)が含まれていました。
ですから、三矢松太郎が近衛歩兵であることは、おおいにありえることです。
近衛師団が、台湾に上陸したのは、明治28(1895)年5月29日のことです。上の記録によれば、近衛師団の本隊は、明治28年8月26日に、牛馬頭に達したとされています。三矢が病死したのは、9月23日に牛馬頭患者宿泊所病院ですから、矛盾しないのです。
また、増援部隊は、9月には台湾に到着していません。
第九聯隊は、明治28(1895)年12月まで遼東半島の守備についていて、大津市へ凱旋したのが年の暮れ。台湾への再出征したのは、翌年1月のことです。ですから、明治28年9月には、台湾にはいません。したがって、三矢は第九聯隊所属ではないはずです。
このように、三矢松太郎を近衛兵と考える証拠は十分ありますし、旧大津陸軍墓地に墓碑がないことも説明がつきます。
『高島郡史』のおかげで、この方の「出身地」と「戦病死年月日」、「戦病死場所」がわかりました。 「出身地」は、「大湊町大字永田」「明治二十八年九月二十三日 牛馬頭患者宿泊所病院」で亡くなっています。
ただ「所属部隊名」が「不明」とされています。これを少しでも明らかにしようと思いました。
ヒントは「牛馬頭」という地名と死亡年月日です。《アジ歴》として知られるサイトで検索すると、おおよそのことがわかりました。それは、三矢松太郎が、近衛師団に所属し、台湾征服戦争に参加したということです。
当時の高島郡(現高島市)で徴兵された若者は、歩兵ならば、第四師団(大坂鎮台を改称)歩兵第九聯隊に入隊したはずです。しかし、選ばれたものが、近衛師団に入隊したのです。
たとえば、明治11(1878)年8月に起きた「竹橋事件」は、近衛兵の叛乱でしたが、処刑されたなかに、三添卯之助をはじめとする6名の滋賀県出身者(22~25歳)が含まれていました。
ですから、三矢松太郎が近衛歩兵であることは、おおいにありえることです。
近衛師団が、台湾に上陸したのは、明治28(1895)年5月29日のことです。上の記録によれば、近衛師団の本隊は、明治28年8月26日に、牛馬頭に達したとされています。三矢が病死したのは、9月23日に牛馬頭患者宿泊所病院ですから、矛盾しないのです。
また、増援部隊は、9月には台湾に到着していません。
第九聯隊は、明治28(1895)年12月まで遼東半島の守備についていて、大津市へ凱旋したのが年の暮れ。台湾への再出征したのは、翌年1月のことです。ですから、明治28年9月には、台湾にはいません。したがって、三矢は第九聯隊所属ではないはずです。
このように、三矢松太郎を近衛兵と考える証拠は十分ありますし、旧大津陸軍墓地に墓碑がないことも説明がつきます。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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