お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「小崎弘道の書(愛者衆徳の帯也)」という記事2009/10/29

 探せば出てくるものですね。
「愛○衆徳之帯也」と刻まれた墓碑には、
ルーツがちゃんとあるのです。
○は「者」だったんです。
同志社時報の1971年6月号(第42号)の扉の絵は、
小崎弘道という人が書いた「愛者衆徳の帯也」
 これは、旧大津陸軍墓地の
「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎墓」
側面の碑文とまったく同じ文言でした。

小崎弘道と日露戦争2009/10/29

 『愛者衆徳之帯也』を書にした小崎弘道は、キリスト者。1856年生まれ。熊本出身。新島襄のあと、35歳にして同志社大学の校長となる。日本のキリスト教世界にとっての大物である。
 私のテーマにとって重要なことは、『1904年に勃発した日露戦争には、自らが主催した大日本宗教家大会において協力の立場を表明』(Wikipedia)したことである。

 これらの事実が、どういう形で、同じく『愛者衆徳之帯也』と墓碑にきざまれた「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎」と結びついていくのだろうか? つまり、皇軍のれっきとした下士官であるにもかかわらず、その墓碑に十字架とこの文言が刻まれて、堂々と陸軍の土地に埋葬をされている事実とどう結びつくのだろうか。?

あらためて「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎之墓」を眺める2009/10/29

「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎墓」
 あらためて「故陸軍砲兵曹長久保田篤次郎」の墓碑を観察して見ることにした。なにか、ヒントになる記述はないのだろうか?
 左側面に「大正七年十一月七日歿」とある。
 西暦に直すと、1918年。シベリア出兵が8月に宣言され、たちまち米騒動が起こった年である。久保田砲兵曹長が亡くなった原因や場所、所属部隊など一切刻まれていない。なぜ、この地に葬られたかも、直接にわかるものはない。
 大正時代の墓碑は、陸軍墓地ではほとんど希である。下士官は遺族の希望により、遺族自身の費用でここに葬られていることから、一般墓地ではない理由があるはずなのだが。
「久保田芳子建之」と刻まれている
 真後ろには、「久保田芳子 建之」とあるが、夫人なのだろう。
十字架と「愛」の文字
右側面には、十字架と「愛」に続く文言が刻まれている。

「慰霊殿」@近江八幡市2009/10/29

「慰霊殿」@近江八幡市
 滋賀県戦没者追悼式典が、毎年、大津市の膳所公園にある「英霊塔」前で行われていることを知りました。長年大津に住みながら知らなかったことが不思議ですが、各市でも行われているものと思います。
 近江八幡市の日牟礼八幡宮の近くに、「慰霊殿」があり、そこでも戦没者追悼法要が行われているそうです。神社の近くでもありますし、仏教式の法要なのかどうか、私にはわかりませんけれど。それにしても、こういう建物があるとこは、珍しいかも知れません。いつごろ建設されたのでしょうか。調べてみたいと思います。
 さて「慰霊殿」の建物は簡素なもので、古い学校の体育館のような趣です。偶然、写真を撮ったにすぎませんので、正面からのものや、全体を写したものはありません。三枚目の写真は側面です。
「慰霊殿」の案内板
 案内板には、「慰霊殿 八幡掘」と表示されていますね。
「慰霊殿」の側面
この上の写真は、「慰霊殿」の側面がわかる写真ですね。
でもこの建物を狙って撮ったのではありません。
その奥に見える「忠魂碑」をねらったものです。

「忠魂碑」@近江八幡市「慰霊殿」奥2009/10/29

「忠魂碑」@近江八幡市「慰霊殿」奥
 近江八幡市の日牟礼八幡宮に立ち寄ったとき、社中に「忠魂碑」があるのではないかと思いました。しかし、見当たりません。中心的な神社にないはずはないのにと不思議に思いましたが、ケーブルに乗車する途中で、林の隙間から見つけました。
 山中の登ったあと、急いで下りて、その場所に向かいました。夕暮れが迫っていて写真が撮れるかどうか心配だったからです。フラッシュをたけば、文字が写りにくくなりますから、私は使えないのです(やっぱり、手ぶれしていますね。残念)
「忠魂碑」遠望
 上の写真でおわかりのように、道の先に「忠魂碑」が見えています。実は、「慰霊殿」の奥なのですが、建物に目を向ける余裕がありませんでした。
 高さは4メートルぐらいあります。材質は、黒い粘板岩のように見えます。周囲に式典などをするものが見当たらないのは、「慰霊殿」が別にあるからなんでしょうね。
 書は「陸軍大将男爵中村覚」とあります。
「忠魂碑」背面
背面を見ると、「昭和七年一月四日」という日付が見えます。

この「忠魂碑」は、戦前の遺物というより、いまなお現役という気がします。

ポスターのある風景 ~「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 近江八幡」~2009/10/29

「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 近江八幡」のポスターがある街角
 近江八幡市で「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展 in 近江八幡」が開催中。この期間(10月3日から11月3日まで)中、平素は予約が必要な建物の見学が、予約なしで見ることができます。NHKの番組でも紹介されていましたので、ヴォーリズへの関心は高まっています。
 上の写真は、ヴォーリズの設計した建築物を巡り歩く途中の街角に、貼られていたものです。このポスターは、地域のいたるところにで見ることができました。
 近江八幡市以外の土地、たとえば軽井沢などにあるヴォーリズ設計の建物を紹介するパネル展示もありました。その中の一枚を見て、BIN★夫婦は絶句しました。「え!?これご近所の写真じゃん」

「おすい」のフタは「まちの顔」 ~近江八幡市の場合~2009/10/29

「おすい」のフタに「まちの顔」 ~近江八幡市の場合~
 「おすい」のフタに、そのまちの顔となるものを彫るというのは、いつからはじまったことなのでしょうか。また、どれだけ普及しているものなのでしょうか。
 大津市の場合は、大津まつりでした。今津町(現在は高島市)は、ザゼンソウ。甲賀町(現在は甲賀市)は、忍者と手裏剣。土山町は、お茶の花でしたね。
 近江八幡市はいったいなんでしょうか。
 興味を持ちながら、まちを歩きました。そして、見つけました。デザインがついている「おすいのフタ」。
 これは・・・水郷の風景かな?

この実は、なんの実なんだろう?2009/10/29

この実は、なんの実なんだろう?
板塀のまえに、つるから尖った長い実がたれている植物が植えられていた。実ったあとでようやく気がつく場合がほとんどの私。この段階で当てるのは無理。でも、想像してみようと思うのだけれど、マメ科のものかな?ひょうたんとかの可能性はないのだろうか。キュウリではないだろうし・・・。
 あ、もしかして糸瓜かな。

祖母はメンソレータムを目に塗った2009/10/29

「近江兄弟社 メンターム資料館」
 「ヴォーリーズ展 in 近江八幡」の会場は、まちそのもの。ウォークラリーのように番号順に、関係する施設を回る。一つの会場の中を見て回るのではない。
 生きたまちを歩くことはとても楽しい。
 「近江兄弟社 メンターム資料館」にも入ってきた。
 「メンターム資料館」と書かれているけれど、同じ近江兄弟社の元の製品名は「メンソレータム」。これは、発明者A・A・ハイド氏が、ヴォーリスに日本での販売権を譲渡して、伝道活動を支援したことによる。
 その「メンソレータム」は、「オロナイン軟膏」と並んで、家族代々の常備薬だった。子ども時代は怪我が絶えないので、いつも赤チンと同じくらいお世話になった。
 私の母方の祖母は、眠る前に、メンソレータムを目にすり込む。スースーして寝るどころではないと私は思うのだけれど、祖母はいつも楽しそうそうに手にとっていた。孫たちが、あきれた顔をすると、それが面白いのか、いつも「クック」と笑いながら、つけていた。もともと、小柄だった祖母だけれど、90歳をすぎて寝たきりとなり、そして亡くなった。
 明治生まれで、とても賢い人だった。尋常小学校のとき抜群の成績のために、進学するように勧められたけれど、親の反対でいけなかったことを残念がっていたと妹に聞いた。ほんとにチャーミングで気丈な祖母。 泣き言なんか聞いたことはなかった。
 ただ、その娘、つまり私の母は、祖母より先に病気で逝くことになった。入院を迫られた母は、しゃにむに故郷に帰りたがった。重大な病気とはまだ知らされていなかった家族は、異常な行動に思えて、それに反対し、「とりあえず入院して検査して」と説得した。興奮していた母もやがて落ち着き、入院した。だが、二度と、故郷に帰ることはなかったのだ。
 母は祖母が見舞うことを避ける風もあった。それもそうだろう。変わり行く娘の姿を見て、祖母は悟ったと思う。
 母が亡くなり、葬儀の日。いよいよ棺とお別れのとき、あれほど気丈な祖母が棺にすがりついて、きっと幼いときから呼んでいるように、その名前を呼んだ。私は逆縁の不幸を目に刻むことになった。
 メンターム、いやメンソレータムを見ると、私は、いまでも、笑いながら目にすり込む祖母の姿が浮かぶ。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)