お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「大津宿本陣跡」の立て札に ― 2009/10/20
京都から逢坂山を越えて、大津に入ります。逢坂の関所跡を越えれば、一気に下り坂。その途中にあるのが「明治天皇聖跡碑」。
立て札を見つけました。それは碑の説明文ではありませんでした。 「大津なかまち元気回復委員会」が作成したもので、中身は次の通りでした。
甲賀市にしばらく滞在して、5年前の合併のあと、、旧町のよさが失われ、その痛みとともに、「自分たちの町とはなにであったのか」「この後、どういう方向にすすめばいいのか」という模索が進行中だと思いました。
合併して消滅した甲賀町の大幹部の方が「合併はまちがいだった」と公式の席で発言されたとききました。「甲賀町の将来を考えて”創健”のまちづくりをしようと「鹿深の森」に図書館、花風香の湯をつくり、そこに庁舎を移転しようとした。ところが、合併のため庁舎は建たず、花風香の湯は、地元になんの相談もなく休業。無念でならない」と。
まったく歴史も風土も産業もちがう5つの町の合併。それも自発的なものではなくて、財政が成り立たなくなるという脅迫と上からの主導のもとに強行された「平成の大合併」。そのツケは、どうなるのか。合併した以上は、そのよさをどう伸ばしていくのか。
合併すれば、当座は旧町のままにすすむけれど、たちまち平準化がはじまります。それも、いいほうに合わせるのではなく、悪い方に合わせる平準化。「だまされた」という感情が生まれるのも当然です。
そのようななかで、旧町のよさを取り戻した結果、全市民に利益が及ぶ例があると知り、興味を持ちました。
土山町には「3人目からの保育料は無料にする」という子育て支援策がありました。それが合併で一旦は廃止になりました。党派をこえて旧町の議員さんが共同し、とりもどした結果、全市に広がったというのです。これは、合併のよさを生かしたともいえますね。
現在進行形の甲賀市の合併のプロセス。それを肌で感じたあと、自分のまち大津市にもどってきました。「大津宿本陣跡」の立て札を見て、過去から元気をもらうことが大切と同時に、全市を一体のものとして考える必要がないのではないかと思うようになりました。
多様な地域が合併して現在に至っているのです。それは過去にさかのぼるほど、多様なわけです。それを生かした多様なまちづくりがいいのではないかと思うのです。
旧ソ連のピアニストのスビャトスラフ・リヒテルは1960年に「鉄のカーテン」を越えて、アメリカに初の演奏旅行。秘密警察に付きまとわれての旅で、アメリカの音楽仲間から亡命の誘いをうけましたが、拒否しました。ほんとうのところはわかりませんが、「なんでもスタンダードな」アメリカに魅力を感じなかったのです。
甲賀市を歩いてみて、国道を中心にチェーン店が立ち並び、大型店が人を集める水口の中心街よりも、さびれかけた町並みとお城、甲賀町に広がる田畑、タヌキがいっぱいの信楽、茶畑と街道の土山がいとおしく感じたのです。
国の経費節減のために合併を強要された地方の苦しみと疲弊を甲賀市でも見てきました。住民を救う道は、国家財政のあり方の転換、大型公共事業と軍事費を削ることに尽きます。消費税の大増税でお茶を濁せば、国民から失望と怨嗟をかうことになります。決断のときは迫っており、それまでは右往左往の政権運営にならざるをえないと私は思います。
立て札を見つけました。それは碑の説明文ではありませんでした。 「大津なかまち元気回復委員会」が作成したもので、中身は次の通りでした。
本陣とは,大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点であったことから、繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す「明治天皇聖跡碑」が建つのみです。過去を大切にせず、目先を追うことは「元気」と誇りのの源をなくすことになるのですね。
甲賀市にしばらく滞在して、5年前の合併のあと、、旧町のよさが失われ、その痛みとともに、「自分たちの町とはなにであったのか」「この後、どういう方向にすすめばいいのか」という模索が進行中だと思いました。
合併して消滅した甲賀町の大幹部の方が「合併はまちがいだった」と公式の席で発言されたとききました。「甲賀町の将来を考えて”創健”のまちづくりをしようと「鹿深の森」に図書館、花風香の湯をつくり、そこに庁舎を移転しようとした。ところが、合併のため庁舎は建たず、花風香の湯は、地元になんの相談もなく休業。無念でならない」と。
まったく歴史も風土も産業もちがう5つの町の合併。それも自発的なものではなくて、財政が成り立たなくなるという脅迫と上からの主導のもとに強行された「平成の大合併」。そのツケは、どうなるのか。合併した以上は、そのよさをどう伸ばしていくのか。
合併すれば、当座は旧町のままにすすむけれど、たちまち平準化がはじまります。それも、いいほうに合わせるのではなく、悪い方に合わせる平準化。「だまされた」という感情が生まれるのも当然です。
そのようななかで、旧町のよさを取り戻した結果、全市民に利益が及ぶ例があると知り、興味を持ちました。
土山町には「3人目からの保育料は無料にする」という子育て支援策がありました。それが合併で一旦は廃止になりました。党派をこえて旧町の議員さんが共同し、とりもどした結果、全市に広がったというのです。これは、合併のよさを生かしたともいえますね。
現在進行形の甲賀市の合併のプロセス。それを肌で感じたあと、自分のまち大津市にもどってきました。「大津宿本陣跡」の立て札を見て、過去から元気をもらうことが大切と同時に、全市を一体のものとして考える必要がないのではないかと思うようになりました。
多様な地域が合併して現在に至っているのです。それは過去にさかのぼるほど、多様なわけです。それを生かした多様なまちづくりがいいのではないかと思うのです。
旧ソ連のピアニストのスビャトスラフ・リヒテルは1960年に「鉄のカーテン」を越えて、アメリカに初の演奏旅行。秘密警察に付きまとわれての旅で、アメリカの音楽仲間から亡命の誘いをうけましたが、拒否しました。ほんとうのところはわかりませんが、「なんでもスタンダードな」アメリカに魅力を感じなかったのです。
甲賀市を歩いてみて、国道を中心にチェーン店が立ち並び、大型店が人を集める水口の中心街よりも、さびれかけた町並みとお城、甲賀町に広がる田畑、タヌキがいっぱいの信楽、茶畑と街道の土山がいとおしく感じたのです。
国の経費節減のために合併を強要された地方の苦しみと疲弊を甲賀市でも見てきました。住民を救う道は、国家財政のあり方の転換、大型公共事業と軍事費を削ることに尽きます。消費税の大増税でお茶を濁せば、国民から失望と怨嗟をかうことになります。決断のときは迫っており、それまでは右往左往の政権運営にならざるをえないと私は思います。
旧真田山陸軍墓地に眠る日置住吉(安曇村三尾里出身) ― 2009/10/21
『高島郡誌』に掲載されている西南戦争の戦病死者は、15名。それぞれの名前を見つめていたとき、「この人たちの墓碑はどこにあるのか」という疑問がわきました。
戦死した場所か、旧真田山陸軍墓地か。
確かめる方法の一つは、『国立歴史民俗博物館研究報告』の102集「慰霊と墓」に掲載されている名簿を探すことです。旧真田山陸軍墓地の墓碑名簿がありましたから。
そこで見つけたのが、日置住吉の墓碑です。 コード№は「B-17-11」。ただし、名前は「日置住・・・」。墓碑からは最後の一字が読み取れなかったのです。
墓碑には『高島郡誌』ではわからなかった部隊名がきちんと掲載されています。「大坂鎮台第九聯隊第ニ大隊」。しかし、「高島郡」ではなく、「高崎郡」となっています(下の写真)。別人ではない証拠に、墓碑から「滋賀県近江国高崎郡三尾・・・」と読み取れた部分の記載があります。「高島郡誌」では、出身地は「安曇村三尾里」。墓碑と郡誌を照らし合わせれば、相互にわからなかった部分が補完できるわけです。
私が旧真田山陸軍墓地で撮影した写真のなかにも、日置住吉の墓碑がありました。上の写真が正面で、下が右側面。
『高島郡誌』では、戦病死年月日と戦病死場所が「明治十年六月二十九日 宮崎県三田村」となっています。墓碑(左側面=下の写真)では、「明治十年鹿児島県賊徒征討之・・・六日負傷日向国三田井村九月・・・陸軍臨時病院時廿ニ年二月・・・」と読み取れます。
戦死した場所か、旧真田山陸軍墓地か。
確かめる方法の一つは、『国立歴史民俗博物館研究報告』の102集「慰霊と墓」に掲載されている名簿を探すことです。旧真田山陸軍墓地の墓碑名簿がありましたから。
そこで見つけたのが、日置住吉の墓碑です。 コード№は「B-17-11」。ただし、名前は「日置住・・・」。墓碑からは最後の一字が読み取れなかったのです。
墓碑には『高島郡誌』ではわからなかった部隊名がきちんと掲載されています。「大坂鎮台第九聯隊第ニ大隊」。しかし、「高島郡」ではなく、「高崎郡」となっています(下の写真)。別人ではない証拠に、墓碑から「滋賀県近江国高崎郡三尾・・・」と読み取れた部分の記載があります。「高島郡誌」では、出身地は「安曇村三尾里」。墓碑と郡誌を照らし合わせれば、相互にわからなかった部分が補完できるわけです。
私が旧真田山陸軍墓地で撮影した写真のなかにも、日置住吉の墓碑がありました。上の写真が正面で、下が右側面。
『高島郡誌』では、戦病死年月日と戦病死場所が「明治十年六月二十九日 宮崎県三田村」となっています。墓碑(左側面=下の写真)では、「明治十年鹿児島県賊徒征討之・・・六日負傷日向国三田井村九月・・・陸軍臨時病院時廿ニ年二月・・・」と読み取れます。
旧大津陸軍墓地に眠る福井乙吉(高島市安曇川町常盤木出身) ― 2009/10/21
『高島郡誌』には、日清戦争(台湾征討戦争も含む)で戦病死した17名の若者の名前が刻まれています。そのうち、6名が所属部隊が不明となっています。福井乙吉もその一人です。
しかし、名簿を照らし合わせた結果、旧大津陸軍墓地に「陸軍歩兵二等卒福井乙吉之墓」があることがわかりました(上の写真がそれで、これはすでに掲載したことがあります)。
墓碑が旧大津陸軍墓地にあるということは、福井乙吉は、陸軍歩兵第九聯隊に所属していたことになるはずです。もし、縁戚の方がおられ、その元にある記録が近衛兵を示しているならば、同姓同名の別人ということになるでしょう。
その側面の写真を下に載せています。
その死亡年月日と死亡場所は、『高島郡誌』と一致しますので、郡誌と旧大津陸軍墓地に眠る福井乙吉は、同一人物ということになります。
『高島郡誌』には、福井姓の戦病死者がもう一人掲載されています。その方の名前は、福井彌七。安曇川の三尾里の出身で、日露戦争に出征したおり、明治38年4月1日に廣島予備病院で病死しています。歩兵一等卒で勲八等功七級を賜っています。
しかし、名簿を照らし合わせた結果、旧大津陸軍墓地に「陸軍歩兵二等卒福井乙吉之墓」があることがわかりました(上の写真がそれで、これはすでに掲載したことがあります)。
墓碑が旧大津陸軍墓地にあるということは、福井乙吉は、陸軍歩兵第九聯隊に所属していたことになるはずです。もし、縁戚の方がおられ、その元にある記録が近衛兵を示しているならば、同姓同名の別人ということになるでしょう。
その側面の写真を下に載せています。
その死亡年月日と死亡場所は、『高島郡誌』と一致しますので、郡誌と旧大津陸軍墓地に眠る福井乙吉は、同一人物ということになります。
『高島郡誌』には、福井姓の戦病死者がもう一人掲載されています。その方の名前は、福井彌七。安曇川の三尾里の出身で、日露戦争に出征したおり、明治38年4月1日に廣島予備病院で病死しています。歩兵一等卒で勲八等功七級を賜っています。
日清戦争で病死した軍夫・中江幸四郎(高島市音羽出身)の墓碑 ― 2009/10/21
『高島郡誌』に記載されている戦病死者のなかに、軍夫(軍役夫)中江幸四郎の名前があります。明治二十八年四月七日 朝鮮平安道瀧川兵站病院で戦病死していると記録されています。
ところで、「軍(役)夫」は、他国に例のないものです。輜重兵の代用として日清戦争に参加しました。その待遇は劣悪で餓死者や凍死者もでたほどです。
その墓碑はどこにあるのか。
もしかしたら、旧真田山陸軍墓地にあるのではないかと、『国立歴史民俗博物館研究報告』「慰霊と墓」を探しました。「中江小四郎」と一字違いの名前がありました。コード番号は、A-9-12.。
死亡場所と年月日が一致しますので同一人物だと思います。
一番前の列の一番左の墓碑(一部しか見えません)の後ろへ9番目の墓碑です。
私は大津市に居住していますが、高島市は仕事でかかわりの深い土地です。『高島郡誌』という明治時代の古い記録のなかにしか登場しないと思った人物が、墓碑が残っているというだけで、リアルさをもって迫ってくるのは不思議です。
この方の縁戚の方も、「中江幸四郎」の墓碑の所在を知らないのではないかと心配になります。
もしかかわりjのある方がいれば、訪れていただけたらと思います。
ところで、「軍(役)夫」は、他国に例のないものです。輜重兵の代用として日清戦争に参加しました。その待遇は劣悪で餓死者や凍死者もでたほどです。
その墓碑はどこにあるのか。
もしかしたら、旧真田山陸軍墓地にあるのではないかと、『国立歴史民俗博物館研究報告』「慰霊と墓」を探しました。「中江小四郎」と一字違いの名前がありました。コード番号は、A-9-12.。
死亡場所と年月日が一致しますので同一人物だと思います。
一番前の列の一番左の墓碑(一部しか見えません)の後ろへ9番目の墓碑です。
私は大津市に居住していますが、高島市は仕事でかかわりの深い土地です。『高島郡誌』という明治時代の古い記録のなかにしか登場しないと思った人物が、墓碑が残っているというだけで、リアルさをもって迫ってくるのは不思議です。
この方の縁戚の方も、「中江幸四郎」の墓碑の所在を知らないのではないかと心配になります。
もしかかわりjのある方がいれば、訪れていただけたらと思います。
雨上がりの庭で ― 2009/10/21
Nさんと小学生との対話 ― 2009/10/21
先日、哨戒艇のお話で紹介した80歳を越えたNさん。
小学校に招かれて戦争の話をしたそうです。
それは、毎年らしいのですけれど、
今年はたくさん、質問が出たといっていました。
「うちのおじいさんは、戦前の時代は、
国民が一体となっていて、いい時代だった」
と言っていますが、どうですか?
こう聞かれたそうです。
Nさんは、次のように答えたそうです。
あなたのおじいさんが
昔をどう感じていたのかということは、
人それぞれなので、それについては
いえませんが、
色んな意見を持ち、それを口にしようとしても、
憲兵というのがいて、自由にものがいえなかった
のが戦前の時代でした。
ですから、一体は一体だったかも知れませんが、
それはそうして無理やり造られたのだと、
思います。
と。
小学校に招かれて戦争の話をしたそうです。
それは、毎年らしいのですけれど、
今年はたくさん、質問が出たといっていました。
「うちのおじいさんは、戦前の時代は、
国民が一体となっていて、いい時代だった」
と言っていますが、どうですか?
こう聞かれたそうです。
Nさんは、次のように答えたそうです。
あなたのおじいさんが
昔をどう感じていたのかということは、
人それぞれなので、それについては
いえませんが、
色んな意見を持ち、それを口にしようとしても、
憲兵というのがいて、自由にものがいえなかった
のが戦前の時代でした。
ですから、一体は一体だったかも知れませんが、
それはそうして無理やり造られたのだと、
思います。
と。
石の旅 ― 2009/10/21
琵琶湖岸の草むらで、石器のように
手にしっくり納まる石を見つけました。
思わず手にとりましたが、しばらく歩くと、
重たくなって、再び地面にころがしました。
もしかして、この石は
そのようにして、
人に拾われ、人に捨てられ、
旅をつづけているのかも知れません。
あなたに出会ったのは、今津でした。
いまはどのあたりにいるのでしょうか。
手にしっくり納まる石を見つけました。
思わず手にとりましたが、しばらく歩くと、
重たくなって、再び地面にころがしました。
もしかして、この石は
そのようにして、
人に拾われ、人に捨てられ、
旅をつづけているのかも知れません。
あなたに出会ったのは、今津でした。
いまはどのあたりにいるのでしょうか。
ねえ狸さん、オリオン座流星群はお昼では見えませんよ ― 2009/10/21
「ねぇ、オリオン座流星群は、お昼ではみえないんですよ」
信楽狸さんたちの顔つきを見ながら、思わずそんな声をかけたくなりました。私は中学生まで大の天体ファンだったのですが、ミドルエイジとなった今は、夜空を見上げる気力がなくて、部屋のなかで、本を読んでいます。
信楽町は2004年までは独立した町でしたが、現在は甲賀市の一部です。水口の人などでは信楽へ行くことを「山に登る」というんですね。最初意味がわかりませんでした。信楽の人は「山の上の人」ってことですね。それだけ、他の町は土地柄が違うことがわかります。
平成の大合併は、周辺部からすれば、役所がどんどん遠くなるってことです。信楽の場合、役所に行くのに「同じ町内どこからでもバスで250円だったのに、(役所が)水口に行ってしまったおかげで、片道だけで950円(バス→信楽高原鉄道→バス)するようになった。これは不公平じゃないか」という理屈は、強制合併だからこそ、成り立つものですね。
赤字の信楽高原鉄道との両立という問題は確かにありますが、今度の市議選で当選した新人のKさん、安い直通バスの実現、がんばってくださいね。
信楽狸さんたちの顔つきを見ながら、思わずそんな声をかけたくなりました。私は中学生まで大の天体ファンだったのですが、ミドルエイジとなった今は、夜空を見上げる気力がなくて、部屋のなかで、本を読んでいます。
信楽町は2004年までは独立した町でしたが、現在は甲賀市の一部です。水口の人などでは信楽へ行くことを「山に登る」というんですね。最初意味がわかりませんでした。信楽の人は「山の上の人」ってことですね。それだけ、他の町は土地柄が違うことがわかります。
平成の大合併は、周辺部からすれば、役所がどんどん遠くなるってことです。信楽の場合、役所に行くのに「同じ町内どこからでもバスで250円だったのに、(役所が)水口に行ってしまったおかげで、片道だけで950円(バス→信楽高原鉄道→バス)するようになった。これは不公平じゃないか」という理屈は、強制合併だからこそ、成り立つものですね。
赤字の信楽高原鉄道との両立という問題は確かにありますが、今度の市議選で当選した新人のKさん、安い直通バスの実現、がんばってくださいね。
小学校の統廃合の波のなかで ― 2009/10/22
話をきいていると、「甲賀市立小中学校の適正規模及び適正配置に関する基本的な考え方について(答申)」が、今年の6月に出されたそうです。見せていただきましたが、「小学校については、 各学年2学級程度を理想」「確保が困難である場合には、学校の再編等を行う」と明記されています。
住民との合意を大切にするとも書かれていますが、こういう答申自身が統廃合への布石となっているのだと思います。
地域にとっては、かけがえのない中心であり、思い出が共有される場所だと思います。もちろんそれだけではないでしょうけれど。
少人数化を歓迎する人もいれば、より多数のなかで育ってほしいという人もいることでしょう。財政上の理由というのは、ありえるかもしれませんが、強権的な対応ではなく、子ども達の育ち合いをなによりも大事にすべきことだと思います。
私には、少ない人数が、いけないこととは思えません。
住民との合意を大切にするとも書かれていますが、こういう答申自身が統廃合への布石となっているのだと思います。
地域にとっては、かけがえのない中心であり、思い出が共有される場所だと思います。もちろんそれだけではないでしょうけれど。
少人数化を歓迎する人もいれば、より多数のなかで育ってほしいという人もいることでしょう。財政上の理由というのは、ありえるかもしれませんが、強権的な対応ではなく、子ども達の育ち合いをなによりも大事にすべきことだと思います。
私には、少ない人数が、いけないこととは思えません。
モーの大あくびの時間です ― 2009/10/22
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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