お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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銅鐸2009/11/03

銅鐸にとくに関心があったわけではない。
しかし、大津市に住んでいて、琵琶湖文化館を
見学したときに、銅鐸などを身近にみていたので、
疎遠な存在というわけでもない。

行く先を決めないで、ドライブしていたときに、
たまたま野洲市にある「銅鐸博物館」の案内板を
見つけて、立ち寄ったというのが正直なところ。
「この博物館は廃館になるって話があるらしい」
とカミさんがぽつりと行ったことが決め手だった。
ともかく、見ておきたいと思った。

現存する最大の銅鐸は、高さが144㎝、重さが45㎏。
それが「滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸」

なぜ、野洲市に銅鐸博物館が建っているのか理解できた。
だが、実物はここにはない。あるのはレプリカ。
なんとなく、胸が痛む。

戦争が落とす暗い影 ~『野洲郡史』(昭和2年刊)から~2009/11/03

 「銅鐸博物館」(野洲市)の資料コーナーにあった『野洲郡史』の一部のコピーを頼んだ。銅鐸ではなく、戦争の記事である。
 戦前の地方自治体の史書には、戦争の一般的なな記述とともに、その地方と戦争のかかわりを伝える資料が掲載されている。たとえば、どの戦争に、どの村からどれだけの人が出征し、どれだけの人たちが戦死したのかなど。
 『野洲郡史』も同様であって、「次に明治維新以来西南、日清、北清、日露の諸戦役又は事変があって、本郡出身の現役、補充、豫後兵として当時服役した人員並に戦死者の氏名は左の通りである」と紹介されている。  細目を省略すると、以下のような人員数となる。

○西南戦役 従軍   33名 うち戦死 11名
○日清戦役 従軍  194名 うち戦死  1名
○日露戦役 従軍1,149名 うち戦死 62名

 これを見ただけで、戦争の規模がどんどん拡大し、地域社会に及ぼす影響が大きくなり、暗い影を落としていくのがわかる。
 ちなみに「壮丁」は「そうてい」と読んで、20歳に達した男子のことをいう。その年に徴兵検査をうける人数のことである。
 野洲郡では、以下のような人数であった。
○明治44年 437人
○大正 1年 512人
○大正 2年 530人
○大正 3年 525人
○大正 4年 499人
○大正 5年 581人

パク・チョルヒー『代議士のつくられ方』(2000年)2009/11/03

パク・チョルヒー『代議士のつくられ方』(2000年)
 パク・チョルヒー氏の『代議士のつくられ方 小選挙区制の選挙戦略』を買って、一気に読み通した。
 朴(パク)氏は、1963年生まれ。韓国生まれ。1998年にコロンビア大学で博士号をとる。恩師は、ジェエラルド・カーチス『代議士の誕生』(1971年)の著者である。
 パク氏自身「この本は、先生の三十年ほど前の博士論文であった『代議士の誕生』を、選挙制度改革以後の都市部の選挙区にあてはめて、日本政治の継続性と変化を改めて分析し直したものと言える」と言っている。
 より具体的に、この本でなにをターゲットにしたのかを、つぎのように率直に語っている。
・・・私の関心事は日本型の選挙の中でも都市部の選挙、なかんずく自民党型の選挙を分析することに集約されている。
 言いかえると、日本の政治制度の枠組みと都市部の社会勢力の多岐にわたる分析の中で、自民党の代議士はどのような選挙戦略によって当選できるのかに興味があったわけである。
 こういう角度から検討を続けたあと、著者はいくつかの重要な条件つきで、2000年に、次のように結論づけている(「第八章 不安定な優位 選挙結果が語るもの」のなかで)。
以上、都市部での選挙戦略の分析を総合して考えてみると、自民党の政治的運命にもさまざまな起伏が出てくる可能性がある。長期一党単独支配の時代とも違う、しかし、二大政党制でもない、自民党の不安定な優位が、今しばらく続くだろう。
 いずれにしても、自民党が日本の基軸政党ということは、当分の間、変わりなさそうだ。
 これを読めば、「当分の間」とは2000年から2009年までの間のことなのかと、思われることだろう。そして、この本の有効性も民主党新政権の誕生で一区切りだと。  しかし、民主党新政権の誕生および総選挙以降の政界の動きについても、パク氏のこの著作は、(選挙戦略という角度から)いまなお解明の道具として有効であると思われる。
 そのことについて、あとで書いてみたいと思う。

あやうく捨てそうになった黒ネコ2009/11/03

あやうく捨てそうになった黒ネコ
ドライブ中のこと。
「いまそこにかわいい黒ネコがいた。
拾いたかったのに・・・。」とカミさんが言いました。
これ以上、ネコが増えても困るので、私は沈黙。

部屋に帰って、「黒ネコならいるのに」と棚を見ると、
いない!棚から落ちた・・・!?
ちょうどゴミ袋のなかに転落していました。
拾い上げて、元の場所へ。
少し汚れて傷ついています。ごめん。

砲弾型の墓碑のルーツは「征清記念碑」(名古屋・廣島)なのか2009/11/03

今津町弘川霊苑には2柱の砲弾型墓碑があります
 日露戦争のあと、高島郡では、、戦死者の墓碑が砲弾型に造られていました。高島郡のすべての町にあったわけではなく、旧マキノ町、旧今津町、旧新旭町にありましたが、旧安曇川町、旧高島町では、ありません。これらの町のうち、高島町では、日露戦争の戦死者の墓碑はありましたが、砲弾型ではありませんでした。
 今津町と新旭町にまたがって旧日本陸軍の饗庭野(あいばの)演習場があります。現在も、近畿で唯一の日米合同演習場として機能していますが、そのことと無縁ではないと思われます。
 ところで、この二つの町で砲弾型墓碑が建てられた理由はなにかが気になってきました。ここだけのオリジナルではなく、必ず、ルーツがあり、そこに従ったにちがいないと思ったからです。
 そこで思い当たったのが、明治36年に建設された二つの「征清記念碑」です。名古屋市と広島市に建てられた20メートルの高さをもつ「征清記念碑」がきっと話題になったはずです。それらを主導したのは、それぞれの市と陸軍ですから、演習場をかかえる今津町、新旭町の関係者が知らないわけがありません。
 これらの「征清記念碑」については、西尾林太郎氏が書かれた「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争の記録 -新たな教材と資料をもとめて-」がとても参考になりました。
 さらにネットで調べていると、砲弾型の記念碑は、諏訪神社にもあるということです。
 日露戦争の場合は、203高地に建てられて巨大な記念碑が、砲弾型になっています。
 上の写真は、旧今津町の弘川霊苑のものです。
 正面の埋葬者の氏名などは読めますが、側面は風化して読むことができませんでした。 『高島郡誌』を調べていて、読めない部分に記載されていたであろう内容がわかりました。上の写真には、砲弾型の墓碑は、2柱あります。左は、「故陸軍歩兵二等卒勲八等功七級前川重五郎之墓」、右は「故陸軍歩兵上等兵小川友吉之墓」。
 前川重五郎は、今津町弘川出身。明治三十七年十一月十四日に廣島予備病院で病死しています。小川友吉は、同じく今津町弘川出身。明治三十七年八月二十ニ日に旅順で戦死しています。

印象は鮮烈 ~砲弾型墓碑~2009/11/03

印象は鮮烈 ~砲弾型墓碑~
 私が問題にしている「砲弾型墓碑」は、高島市、それも旧今津町と旧新旭町にある日露戦争戦病死者の墓碑のことです。上の写真がそれです。
 この墓碑の与える印象は強烈だと思います。形が直接的に砲弾をイメージさせますし、他に類がないからです。戦争という事実をいやでもつきつける形です。墓碑というよりも、戦争の記念碑に近いものだと思います。
 もともと石塔形の墓碑(=死者のために墓石を建てること)は、古代から存在しているものではありません。岩田重則氏によれば『日本の墓制は、土葬にせよ火葬にせよ、中世までは石塔の建立が行われない石塔非建立型であった』(『「お墓」の誕生』岩波新書p.139)のです。
 下の写真は現在の甲賀市のものですが、非石塔型が普通に行われています。
石塔非建立型の墓地(土山町にて)
 『近世の寺檀制度、仏教の「葬式仏教」としての浸透のなかで、徐々に石塔建立型となっていく』のです。
笠塔婆が並ぶ梅香山縁心寺の墓地
『その石塔も、近世前期・中期までは光背型などが多いが、近世後期以降は方柱状の石塔が増加、さらに、そのうちのひとつとして近現代社会に大きく発展してきたのが、現代の「お墓」として一般常識となっている角柱型石塔であった。』<同 pp.139-141
 上の写真は、膳所藩主の墓碑がある梅香山縁心寺で見ることができる「笠塔婆」です。これは江戸時代に作られた形ですね。
 ともかく、『「お墓」とは前近代的残滓でもなく、はたまた伝統的ともいえるほどの生活習慣でもなかったことは明らか』なわけです。
 とはいえ、墓地のなかで、江戸期の石塔建立型を見つけるのは希です。ほとんどは明治以降となります。そして、目立つのが墓地の入り口などにそそり立つように立てられる角柱型の戦死者の墓碑なわけです。
 私が今問題にしているのは、砲弾型墓碑。
 これはすべての土地がそうなったというわけでもなく、日清以降の戦争の墓碑がそう造られたというわけでもないのです。日露戦争の戦病死者で、しかも(私の目にする限り)高島市の今津と新旭だけに見ることができたものです。
 墓碑の歴史のなかでも、また戦死者の墓碑としても特別な存在ではないかと思うのです。 その理由を考えるに値することだと思いました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)