お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
陸軍歩兵上等兵 内田検次郎之墓@旧大津陸軍墓地 ― 2009/11/08
日清戦争は、明治27年から28年のことです。台湾征服戦争を入れれば、明治29年まで。西暦では、1894年から96年の出来事です。
今から、110年も前の出来事です。
しかし、戦争の傷跡はいまだ消えていません。
日清戦争の戦病死者の遺族の方は、いまでも生きて足取りを探されていることと思います。そういう方からの問い合わせもお一人ではありませんでした。私は、少しでもお役に立てばと思っています。
このブログを始めた頃は、亡くなられたお方の名前を書くのをためらっていました。しかし、書くことによって発見される方がいらっしゃるのですから、あえて記録していこうと思います。
『新旭町誌』によれば、この町(現在は高島市の一部となりました)から日清戦争でお亡くなりになった方は、4名となっています。お名前は、大塚長次郎、富田梅吉、山田庄七そして内田検次郎
上の墓碑は、内田検次郎さんのものです。
場所は、旧大津陸軍墓地です。
内田さんは、『町誌』では、明治3年10月19日生まれ。陸軍歩兵第九聯隊に所属する上等兵でした。お亡くなりになったのは、明治28年5月1日。場所は、「清国王家屯」と書かれています。
墓碑では、お亡くなりになった場所がちがっています。
見ての通り、「沙家屯」となっています。
この違いが重要となるのかどうか、まだわかりません。
第九聯隊の日清戦争での足取りについて、2007年の11月に(このブログで)つぎのように書きました。
今から、110年も前の出来事です。
しかし、戦争の傷跡はいまだ消えていません。
日清戦争の戦病死者の遺族の方は、いまでも生きて足取りを探されていることと思います。そういう方からの問い合わせもお一人ではありませんでした。私は、少しでもお役に立てばと思っています。
このブログを始めた頃は、亡くなられたお方の名前を書くのをためらっていました。しかし、書くことによって発見される方がいらっしゃるのですから、あえて記録していこうと思います。
『新旭町誌』によれば、この町(現在は高島市の一部となりました)から日清戦争でお亡くなりになった方は、4名となっています。お名前は、大塚長次郎、富田梅吉、山田庄七そして内田検次郎
上の墓碑は、内田検次郎さんのものです。
場所は、旧大津陸軍墓地です。
内田さんは、『町誌』では、明治3年10月19日生まれ。陸軍歩兵第九聯隊に所属する上等兵でした。お亡くなりになったのは、明治28年5月1日。場所は、「清国王家屯」と書かれています。
墓碑では、お亡くなりになった場所がちがっています。
見ての通り、「沙家屯」となっています。
この違いが重要となるのかどうか、まだわかりません。
第九聯隊の日清戦争での足取りについて、2007年の11月に(このブログで)つぎのように書きました。
第四師団歩兵第九連隊は、日清戦争の休戦協定(3月30日)の直前に大津市を出征(3月28日)し、広島に到着した。ここで約10日間逗留したのち、遼東半島にむかって4月11日と13日に宇品港を出向し、4月14日と16日に大連湾に到着した。だが、4月17日に、日清講和条約が締結された。21日、講和の詔勅が下りた。上陸前に戦争は終結してしまったのである。内田検次郎上等兵は、このなかにいたはずです。そして、沙家屯に到着してまもなく、病名は書かれていませんが聯隊内に蔓延していた疾患によって、5月1日に病死したと思われます。
第九連隊は、4月22日と23日に柳樹屯に上陸。24日と25日に「沙家屯附近ニ在ル西華家屯附近ノ舎営地」(第九連隊戦役経歴書)に到着した。
コメント
_ 内田 武夫 ― 2010年07月26日 00時03分09秒
_ BIN★→内田武夫さん ― 2010年09月26日 09時46分13秒
メールでやりとりさせていただきました。
無事、墓参できたとおききし、うれしく思いました。
無事、墓参できたとおききし、うれしく思いました。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/08/4684276/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
井上さんが、冒頭にお書きになっている、「戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。通信兵だった父や防空監視隊にいた母から聞かされた話は、戦争は二度とあってはならないという思いを強くさせるものでした。ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、国家の理屈で議論が進みます。同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。戦争は、最悪の暴力。私は草の根の痛み、どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で書いていきたいと思っています。」とのお言葉には感激いたしました。
私は、祖父と長兄を戦争で亡くしていますので、私の母は、父と息子を戦争で亡くしているのです。私はこの母の悲しみを理解するようになったのは、10年前のことでした。それまでは、祖父と長兄の死は、単なる戦死と受けとめていました。母は、戦争により、父と息子を死なしたことの悲憤を抱いていたでしょうに、内に秘めていたように思われます。
ともあれ、祖父の墓碑が現存し、きれいに管理されているのを見せていただき、有難いことと思っています。この墓地は、現在どなたが管理して頂いているのでしょうか?
この墓地は旧陸軍墓地と聞きましたが、アクセスはどのようでしょうか?バス、電車の最寄の駅は何処でしょうか?
ご返事いただければ、幸いです。
宜しくお願い致します。
酷暑の折から、ご自愛ください。