お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
西南戦争・日清戦争・日露戦争の戦死者名簿@旧高島郡新旭町 ― 2009/11/11
昭和60年に出版された『新旭町誌』には、戦死者の名簿が載せられている。これによると、西南戦争は2名(表52)、日清戦争は4名(表53)、そして日露戦争は13名(表54)である。
西南戦争の死亡通知の写真もあり、生々しい。
西南戦争の戦死者
○清水 清五郎 藁園出身
明治10年3月10日 熊本県田原坂
○尾島 五次郎 辻沢出身
明治10年4月9日 熊本県山本郡横平山
これら2名の個人墓碑を私はまだ見つけていない。
戦死したその場所か、それとも旧真田山陸軍墓地か。
日清戦争の戦死者
○大塚 長次郎 太田
明治28年12月8日 清国盛京省旅順口 (26歳)
○冨田 楳吉 木津
明治28年6月18日 清国柳家屯 (不明)
『新旭町誌』では「梅吉」、墓碑は「楳吉」。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/12/4688008
○内田 検次郎 森
明治28年5月1日 清国王家屯 (24歳)
○山田 庄七 新庄
明治32年7月13日 台湾台中 (22歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/11/4687538
この4名のうち3名の個人墓碑は、旧大津陸軍墓地に。
山田庄七は新旭町新庄(上の写真)にある。
日露戦争の戦死者
○小林 鹿治郎 新庄
明治38年3月7日 清国小貴堡 (21歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/11/1903781
○多胡 源蔵 新庄
明治39年2月23日 大津衛戍病院 (23歳)
○三重生 辰蔵 北畑
明治37年8月5日 清国大平庄兵站病院 (24歳)
○兼子 捨松 藁園
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (27歳)
○桂田 才治郎 藁園
明治38年3月1日 清国盛京有腰屯陣地 (25歳)
○清水 末吉 太田
明治38年3月23日 対馬西ノ水道付近 (20歳)
○清水 音治郎 太田
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (31歳)
○森 安三郎 太田
明治38年3月5日 清国盛京省唐家屯北方高地 (21歳)
○内藤 秀吉 木津
明治38年3月14日 清国盛京省樹林子 戦地病院 (25歳)
○桒原 元次郎 今市
明治37年8月21日 清国旅順鶏冠山北砲台 (22歳)
○遠藤 辰次郎 堀川
明治37年10月12日 清国老峮峪北高地 (24歳)
○川島 乕太郎 霜降
明治38年3月7日 清国盛京省小貴堡 (22歳)
○中村 新九郎 深溝
明治38年2月15日 清国遼陽兵站病院 (31歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2008/07/13/3625281
「新旭町誌」では、これら日露戦争で戦死した若者が、大津市に衛戍地をもつ陸軍歩兵第九聯隊に所属していたとしている。同時に、何人かは後備歩兵第九聯隊に属していたと思われる。
日露戦争で乃木大将の第三軍に配属された後備歩兵第九連隊は、明治37(1904)年8月21日、旅順要塞への突撃で連隊長と二人の大隊長が戦死。24日の突撃でほぼ壊滅する。わずか4日間のことだった。上記のうち、兼子捨松、 清水音治郎、桒原元次郎の3名がこの攻撃で命を落としたと思われる。
日露戦争で亡くなったこれらの若者の個人墓碑のいくつかは現在も目にすることができる。たとえば、小林鹿治郎の墓碑は、山田庄七とおなじ新庄の墓地にある。砲弾型である。中村新九郎の墓碑は深溝にある。これもまた砲弾型である。
西南戦争から日清戦争をへて、日露戦争にいたるまで、戦死者の数は増え続けている。その後、第一次世界大戦や日中戦争・太平洋戦争では、これらに比べることができないほどの犠牲者が生まれている。
あまりにも若すぎる死、国家によって強制された死の現実がここにある。その人たちが等しく坂の上の雲を見ていたとは思われない。
西南戦争の死亡通知の写真もあり、生々しい。
西南戦争の戦死者
○清水 清五郎 藁園出身
明治10年3月10日 熊本県田原坂
○尾島 五次郎 辻沢出身
明治10年4月9日 熊本県山本郡横平山
これら2名の個人墓碑を私はまだ見つけていない。
戦死したその場所か、それとも旧真田山陸軍墓地か。
日清戦争の戦死者
○大塚 長次郎 太田
明治28年12月8日 清国盛京省旅順口 (26歳)
○冨田 楳吉 木津
明治28年6月18日 清国柳家屯 (不明)
『新旭町誌』では「梅吉」、墓碑は「楳吉」。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/12/4688008
○内田 検次郎 森
明治28年5月1日 清国王家屯 (24歳)
○山田 庄七 新庄
明治32年7月13日 台湾台中 (22歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/11/4687538
この4名のうち3名の個人墓碑は、旧大津陸軍墓地に。
山田庄七は新旭町新庄(上の写真)にある。
日露戦争の戦死者
○小林 鹿治郎 新庄
明治38年3月7日 清国小貴堡 (21歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/11/1903781
○多胡 源蔵 新庄
明治39年2月23日 大津衛戍病院 (23歳)
○三重生 辰蔵 北畑
明治37年8月5日 清国大平庄兵站病院 (24歳)
○兼子 捨松 藁園
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (27歳)
○桂田 才治郎 藁園
明治38年3月1日 清国盛京有腰屯陣地 (25歳)
○清水 末吉 太田
明治38年3月23日 対馬西ノ水道付近 (20歳)
○清水 音治郎 太田
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (31歳)
○森 安三郎 太田
明治38年3月5日 清国盛京省唐家屯北方高地 (21歳)
○内藤 秀吉 木津
明治38年3月14日 清国盛京省樹林子 戦地病院 (25歳)
○桒原 元次郎 今市
明治37年8月21日 清国旅順鶏冠山北砲台 (22歳)
○遠藤 辰次郎 堀川
明治37年10月12日 清国老峮峪北高地 (24歳)
○川島 乕太郎 霜降
明治38年3月7日 清国盛京省小貴堡 (22歳)
○中村 新九郎 深溝
明治38年2月15日 清国遼陽兵站病院 (31歳)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2008/07/13/3625281
「新旭町誌」では、これら日露戦争で戦死した若者が、大津市に衛戍地をもつ陸軍歩兵第九聯隊に所属していたとしている。同時に、何人かは後備歩兵第九聯隊に属していたと思われる。
日露戦争で乃木大将の第三軍に配属された後備歩兵第九連隊は、明治37(1904)年8月21日、旅順要塞への突撃で連隊長と二人の大隊長が戦死。24日の突撃でほぼ壊滅する。わずか4日間のことだった。上記のうち、兼子捨松、 清水音治郎、桒原元次郎の3名がこの攻撃で命を落としたと思われる。
日露戦争で亡くなったこれらの若者の個人墓碑のいくつかは現在も目にすることができる。たとえば、小林鹿治郎の墓碑は、山田庄七とおなじ新庄の墓地にある。砲弾型である。中村新九郎の墓碑は深溝にある。これもまた砲弾型である。
西南戦争から日清戦争をへて、日露戦争にいたるまで、戦死者の数は増え続けている。その後、第一次世界大戦や日中戦争・太平洋戦争では、これらに比べることができないほどの犠牲者が生まれている。
あまりにも若すぎる死、国家によって強制された死の現実がここにある。その人たちが等しく坂の上の雲を見ていたとは思われない。
11・8沖縄県民大会にヴァーチャル参加! ― 2009/11/11
BIN★は、ばるタンさんに連れられて、
沖縄の県民集会に参加しました。
(う~ん、いつの間に)
そのときの写真です。
ばるタンさんのブログ
「犬と歩けばゴミを拾う in 沖縄」にあった
「へのへのこちゃん」旗の写真が
欲しくて送ってもらいました。
ありがとうございます。
私は、ヴァーチャル参加ですけれど。気持ちは同じです。
集会の正式の名前は、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」。
沖縄の県民集会に参加しました。
(う~ん、いつの間に)
そのときの写真です。
ばるタンさんのブログ
「犬と歩けばゴミを拾う in 沖縄」にあった
「へのへのこちゃん」旗の写真が
欲しくて送ってもらいました。
ありがとうございます。
私は、ヴァーチャル参加ですけれど。気持ちは同じです。
集会の正式の名前は、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」。
「米大統領に強く訴えを」=普天間移設問題で県民大会-沖縄
11月8日14時18分配信 時事通信
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の県内移設反対を訴える県民大会が8日、同市の宜野湾海浜公園で開かれ、県内外から約2万1000人(主催者発表)が参加した。伊波洋一宜野湾市長が登壇し、「来日するオバマ米大統領に沖縄の米軍基地がいかに負担となっているか、(移設先とされる名護市の)辺野古の海がいかに貴重な海であるか、鳩山首相から強く訴えてほしい」と語気を強めた。
日米地位協定の改定を求め、仲井真弘多知事と訪米中の松沢成文神奈川県知事が、県外・国外移設は不可能と発言したことに、沖縄県議の新里米吉大会事務局長は壇上で「県民を愚弄(ぐろう)する身勝手な発言だ」と批判した。
会場を訪れた宜野湾市の無職新垣仁英さん(68)は「県内に移設されても危険な飛行場であることは変わらず、納得できない」と述べた。 那覇市の会社員石嶺淳也さん(35)は、政府の説明を「不十分」と感じて参加したという。移設先について「息子のためにも県外(移設)を望んでいるが、現実的に可能かどうか」と話した。
大会では「新政権は米側の圧力に屈せず、対等な日米交渉で県民の声を堂々と主張すべきだ。小さな島沖縄にこれ以上基地はいらない」とする決議を採択した。
「台湾守備」異状なし ~陸軍歩兵上等兵山田庄七之墓~ ― 2009/11/11
『大津市志』(昭和17年発行:非売品)には、明治30年代はじめの陸軍歩兵第九聯隊(大津)について、次のように書かれた部分があります。
文章のなかの「帰営」は日本に戻ったことを意味するのでしょうけれど、「交代」はどうなんでしょうか。いずれにしても、中隊規模ですから100名程度。聯隊は1500名規模ですから、そのうちの少数。運命をわける選抜だったのでしょうか。
たしかレマルクの小説に『西部戦線異状なし』というのがありましたね。映画にもなりました。祖国を守る戦争にあこがれて、前線に出た少年が理想と程遠い異様な現実にぶちあたり、学校で教わることの欺瞞線に気づきます。再びもどった前線の塹壕。外に美しい花を見つけて、手を差し伸べたとき、一発の銃弾に頭部を貫かれて戦死します。
しかし、軍部の報告は「西部戦線異状なし」。一人の兵士が亡くなっても、異状なしなわけです。この22歳の山田庄七の死の場合も。
墓碑を見ていると、なくなった庄七のことだけでなく、これを建立した家族の思いがどうだったのかと想像してしまいます。
(明治三十年)九月、第九聯隊は台湾守備として戦時一中隊を編成して出発、台中に駐屯、同三十一年九月台湾守備交代、同三十二年五月交代、同十一月交代兵帰営。同三十三年五月台湾守備交代出発、同三十四年五月及び八月交代した。上の写真は、正面に「陸軍歩兵上等兵山田庄七之墓」と刻まれています。その右側面には、「明治三十二年七月十三日台湾守備中干台中歿」
文章のなかの「帰営」は日本に戻ったことを意味するのでしょうけれど、「交代」はどうなんでしょうか。いずれにしても、中隊規模ですから100名程度。聯隊は1500名規模ですから、そのうちの少数。運命をわける選抜だったのでしょうか。
たしかレマルクの小説に『西部戦線異状なし』というのがありましたね。映画にもなりました。祖国を守る戦争にあこがれて、前線に出た少年が理想と程遠い異様な現実にぶちあたり、学校で教わることの欺瞞線に気づきます。再びもどった前線の塹壕。外に美しい花を見つけて、手を差し伸べたとき、一発の銃弾に頭部を貫かれて戦死します。
しかし、軍部の報告は「西部戦線異状なし」。一人の兵士が亡くなっても、異状なしなわけです。この22歳の山田庄七の死の場合も。
墓碑を見ていると、なくなった庄七のことだけでなく、これを建立した家族の思いがどうだったのかと想像してしまいます。
「陸軍歩兵一等卒大塚長治郎之墓」@旧大津陸軍墓地 ~帰国直前の無念の病死~ ― 2009/11/11
日清戦争に出征した新旭町(現高島市)出身者は、4名。うち、1名(山田庄七)は戦争終結後、台湾守備の任務先で亡くなっています。残り3名の墓碑は、旧大津陸軍墓地にあります。
上の写真は、「陸軍歩兵一等卒 大塚長治郎」の墓碑です。
大塚長治郎は、明治2(1869)年5月7日生まれ。戦病死したのは、明治28(1895)年12月8日。25歳でなくなったのです。 場所は、「清国盛京省旅順口」となっています。
長治郎の死について、これ以上の記述がありません。
ただ、『大津市史』(昭和17年)には、彼が配属された陸軍歩兵第九聯隊の動きについての記述がありますので、それをもとに想像することはできます。
大津に営所をもつ第九聯隊は、日清戦争が勃発してすぐに戦地に赴いたわけではありません。明治27(1894)年11月26日に動員令が下りましたが、実際に、営所から出征するのは、翌明治28(1895)年3月28日となります。配属は、第四師団全体とともに、第二軍でした。
4月11日に廣島の宇品港を出発。16日に大連、22日に柳樹屯に上陸。しかし、下関講和条約が締結されたために、5月17日には、第二軍の編成を解かれて、師団は遼東半島の守備につくことになりました。守備の任務を解かれたのは、12月のことです。大津へ帰営したのは、12月25日。
大塚長治郎は12月8日に旅順口で亡くなっていますが、日本に帰国するために、旅順港までたどり着きながら、そこで無念の病死をしたと思われます。わずか25年の命でした。
上の写真は、「陸軍歩兵一等卒 大塚長治郎」の墓碑です。
大塚長治郎は、明治2(1869)年5月7日生まれ。戦病死したのは、明治28(1895)年12月8日。25歳でなくなったのです。 場所は、「清国盛京省旅順口」となっています。
長治郎の死について、これ以上の記述がありません。
ただ、『大津市史』(昭和17年)には、彼が配属された陸軍歩兵第九聯隊の動きについての記述がありますので、それをもとに想像することはできます。
大津に営所をもつ第九聯隊は、日清戦争が勃発してすぐに戦地に赴いたわけではありません。明治27(1894)年11月26日に動員令が下りましたが、実際に、営所から出征するのは、翌明治28(1895)年3月28日となります。配属は、第四師団全体とともに、第二軍でした。
4月11日に廣島の宇品港を出発。16日に大連、22日に柳樹屯に上陸。しかし、下関講和条約が締結されたために、5月17日には、第二軍の編成を解かれて、師団は遼東半島の守備につくことになりました。守備の任務を解かれたのは、12月のことです。大津へ帰営したのは、12月25日。
大塚長治郎は12月8日に旅順口で亡くなっていますが、日本に帰国するために、旅順港までたどり着きながら、そこで無念の病死をしたと思われます。わずか25年の命でした。
西南戦争の戦死者名簿@田原坂 ~滋賀県出身は156名~ ― 2009/11/11
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント