お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
二つの山県有朋伝 ~岡義武『山県有朋 -明治日本の象徴-』と伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』~ ― 2009/11/20
明治の二つの戦争(日清・日露)の背後には、山県有朋の大きな影がにある。それほどの存在である。だが、伝記的な本はきわめて少ない。私がもっている岡義武氏のものと、伊藤之雄氏のものをのぞくと、藤村道生氏のものがあるだけという。
今日買ったのは、伊藤之雄氏の『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)である。文庫としては、かなり太くて書棚で目立っていた。同じぐらい太い『キメラ』を買うつもりだったのだけれど、「あとがき」などを読んでみて、気持ちが変わり、この本を買うことにした。
ちなみに、伊藤之雄氏の本は、2008年出版。岡義武氏のものは1958年、藤村道生氏のものは1961年。後2者と伊藤氏のものの間には、半世紀の間が開いている。
岡義武氏の本は、政治史関係で何冊か読んだことがある。古本屋で買った同氏の『山県有朋 -明治日本の象徴-』(岩波新書)は、活字も旧くて読みづらかったけれど、版を改めた新刊書ではずいぶん読みやすくなっていた。そういうこともあり、買って読んでいた。 1958年は、まだ戦後13年目である。時代的には、安保闘争前。そjの時代の空気を考えれば、軍人・山県有朋を主題にすることは、読者には違和感があったのではないだろうか。そういう事情もあり、冒頭から、なぜ山県有朋なのかが論じられている。
最終章「晩年とその死」ではつぎのような文章を見出すことができる。
その半世紀後に、伊藤氏は同じく『山県有朋』を著す。
伊藤氏は自らの対象とした山県有朋に強くのめりこむ。
氏はわざわざ「山県の陸軍は太平洋戦争につながるか」という節を設けている。その結論は「山県が築いた日本陸軍が、太平洋戦争へと導いた日本陸軍に直接つながるわけではない」というものである。
なぜ太平洋戦争につながるか、つながらないのかが問題になるかといえば、太平洋戦争=悪い戦争(侵略戦争)、それ以前の日清・日露戦争=やむをえない戦争(防衛戦争)という認識があるように思える。
今日買ったのは、伊藤之雄氏の『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)である。文庫としては、かなり太くて書棚で目立っていた。同じぐらい太い『キメラ』を買うつもりだったのだけれど、「あとがき」などを読んでみて、気持ちが変わり、この本を買うことにした。
ちなみに、伊藤之雄氏の本は、2008年出版。岡義武氏のものは1958年、藤村道生氏のものは1961年。後2者と伊藤氏のものの間には、半世紀の間が開いている。
岡義武氏の本は、政治史関係で何冊か読んだことがある。古本屋で買った同氏の『山県有朋 -明治日本の象徴-』(岩波新書)は、活字も旧くて読みづらかったけれど、版を改めた新刊書ではずいぶん読みやすくなっていた。そういうこともあり、買って読んでいた。 1958年は、まだ戦後13年目である。時代的には、安保闘争前。そjの時代の空気を考えれば、軍人・山県有朋を主題にすることは、読者には違和感があったのではないだろうか。そういう事情もあり、冒頭から、なぜ山県有朋なのかが論じられている。
この書物で、わたくしは山県有朋の小さい「肖像画」を描こうと試みた。今どき山県というような人物を何故とり上げるのか。そのことについて一言するのは無意味ではないであろう。私はここであらためて戦前の政治史における山県有朋の巨大な影響力を知ることになるのだけれど、それを確認させたうえで、岡氏はつぎのようにまとめる。
・・・烈しい権力意志に貫かれた彼の八五年の生涯は、われわれに「政治的人間」(Homo politicus)の一つの型を示している。それであるからこそ、われわれの生きる今日と彼の生きた時代とでは条件、状況をいろいろと異にしているにもかかわらず、ひとり政界といわず今日の世上で山県のようなタイプ、山県的な行動様式についてわれわれが見聞しても、それは不思議なことではない。山県の一生は、こうして、「政治的人間」というものを理解する上からも、現在のわれわれにとって無縁なものではないように思われる。岡氏がどうようなことを危惧して、まただれを具体的に念頭において、この書物を書いたのだろうか。
最終章「晩年とその死」ではつぎのような文章を見出すことができる。
・・・彼の擁した正に巨大な勢力は、法的には明治二十二年憲法の上に、しかし、実体的には明治維新に歴史的起点をもつ天皇制の上に築き上げられたものであった。すなわし、彼の支配の基礎は、民衆にはなかったのである。その晩年において宮中に、また枢密院に自己の系統のひとびとを布置して、勢力の維持につとめた事実もまた、実に一面においてそのことを証拠だてるものである。民衆は、彼にとっては、支配の単なる客体にすぎず、従って、彼の権力意志は支配機構を掌握することへと集中されたのである。彼は終始民衆から遊離したところの存在であった。彼から見捨てられていた民衆は、それ故に、また彼を見捨てていた。そして、彼の死に対しても冷かであり、無関心であった。
・・・彼の死とともに、しかし、政治の世界においてもまた波の音は一層はっきりとききとれるようになった。新しき時代の潮騒であった。
けれども、このひらかれつつあった新しい時代もわれわれの日本を光明の中へ導くものではなかった。そのことを今日では知っている。そのことは、山県の長い生涯を辿ってその死に及んだ今、われわれの回想を悲しみと感慨とをもってみたす。
その半世紀後に、伊藤氏は同じく『山県有朋』を著す。
伊藤氏は自らの対象とした山県有朋に強くのめりこむ。
執筆を進め、山県自身の書状等の史料も読んで、生身の山県有朋の言動を知るにつれ、猜疑心が強くて、少し暗い性格の奥に、新しい山県が見えてきた。それは「愚直」といえるほど生真面目で、優しさを秘めた人柄である。私は山県の「愚直」な人柄がどんどん好きになっていった。山県有朋の歴史的な役割から離れて、伊藤氏は、人物論、人生論に傾いていく。
現代の社会は、何事にも摩擦や責任を避け、要領よくその場を切り抜けることが一つの価値になっている。また、情報過剰というべき中で、実態を離れて見かけや評判が一人歩きして大きな力をもつようになっている。私たちも、好むと好まざるにかかわらず、そうした傾向に追随して生きざるを得ない、と自らを納得させる場面が多いように思われる。こういう肯定的な描き方は、歴史的評価と表裏一体である。
しかし、近年、そうした生き方や価値、またそれが作り出した社会が、思ってもいない大きな矛盾を噴出させ、社会の骨格や根底を揺さぶり始めているように見える。山県の「愚直」な生涯をふり返ってみることは、今の私たちに欠けてしまった何かを与えてくれるような気がしてならない。
氏はわざわざ「山県の陸軍は太平洋戦争につながるか」という節を設けている。その結論は「山県が築いた日本陸軍が、太平洋戦争へと導いた日本陸軍に直接つながるわけではない」というものである。
なぜ太平洋戦争につながるか、つながらないのかが問題になるかといえば、太平洋戦争=悪い戦争(侵略戦争)、それ以前の日清・日露戦争=やむをえない戦争(防衛戦争)という認識があるように思える。
・・・山県は用心深い、猜疑心の強い性格であり、列強の動向を強く心配し、常に陸軍軍備の拡張や近代化を要求した。山県が徴兵制の導入に積極的で、それを完成させたのも、列強の東アジア進出に直面し、日本が列強に植民地化されるのを恐れたためだった。そして、最後には次の評価になってくる。
一般に、集団や組織の継承者がその創設者の精神を忘れ、あるいはそれを古いものだと否定して、勝手に行動するのは歴史上よくあることである。むしろ、新しい状況下に、創設者の精神や真の意味を再解釈しながら、集団や組織を発展させていった例の方が少ないと言ってよい。太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導き出されたのではない。むしろ、山県の死後、山県の陸軍への理想や精神を忘れた陸軍軍人たちが、山県の作った陸軍の組織や制度・権力を都合よく解釈して利用し、太平洋戦争への道を作ったのである。少なくとも、今の私には強い違和感があるのだが。
休日は家にいて ― 2009/11/20
我が家は、共働きです。
家事が得意ではない二人が、息子二人と
ネコ二匹と暮らしています。
つまり、散らかす人数の方が圧倒的。
おまけに一度袖を通すとすぐ洗濯という家風を、
カミさんが持ち込みました。
ネコは自前のきたきり衣服ですから
問題がありません。
しかし、ネコ以外の消費が激しく、
たちまち、山のように洗濯物がたまります。
屋外に干すと雨が心配なので、
干せても屋内。乾燥機回すと高額。
今日は、平日。
休みを取りましたが、どこも行かずに、
衣類と格闘することにしました。
干すコーナーを増設したり、
ハンガーを大量に買ったり。
そういえば、カミさんは最近、
仕事で消耗が激しそうです。
少し休憩して、TVを見ました。
キレイに片付いている家を見ると、
うらやましくなるけれど、とても無理です。
しばらく休日に外出はひかえて、
片付けに没頭しようかと思う私でした。
お昼過ぎにケータイに書店から着信。
予定より4日も早く予約本が到着とのこと。
関川夏央・谷口ジローの『「坊ちゃん」の時代』Ⅰ~Ⅳ
ホッセイニの『千の輝く太陽』
・・・ヴァーチャル・ブッククラブですね。
hummingbirdさん、ばるタンさん、
さっそく、読みにかかります。
このブログを見に来ていただいているみなさん、
興味深い本があれば、ご紹介ください。
すべてが読めるわけではありませんけれど。
家事が得意ではない二人が、息子二人と
ネコ二匹と暮らしています。
つまり、散らかす人数の方が圧倒的。
おまけに一度袖を通すとすぐ洗濯という家風を、
カミさんが持ち込みました。
ネコは自前のきたきり衣服ですから
問題がありません。
しかし、ネコ以外の消費が激しく、
たちまち、山のように洗濯物がたまります。
屋外に干すと雨が心配なので、
干せても屋内。乾燥機回すと高額。
今日は、平日。
休みを取りましたが、どこも行かずに、
衣類と格闘することにしました。
干すコーナーを増設したり、
ハンガーを大量に買ったり。
そういえば、カミさんは最近、
仕事で消耗が激しそうです。
少し休憩して、TVを見ました。
キレイに片付いている家を見ると、
うらやましくなるけれど、とても無理です。
しばらく休日に外出はひかえて、
片付けに没頭しようかと思う私でした。
お昼過ぎにケータイに書店から着信。
予定より4日も早く予約本が到着とのこと。
関川夏央・谷口ジローの『「坊ちゃん」の時代』Ⅰ~Ⅳ
ホッセイニの『千の輝く太陽』
・・・ヴァーチャル・ブッククラブですね。
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さっそく、読みにかかります。
このブログを見に来ていただいているみなさん、
興味深い本があれば、ご紹介ください。
すべてが読めるわけではありませんけれど。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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