お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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忠魂碑の台座の柵 ~砲弾型の支柱 Ⅳ(安曇)~2010/09/30

整備された周囲は忠魂碑が”現役”として機能している気がしました
旧安曇村の忠魂碑は
周囲の広場も含めて
最もりっぱな施設の一つでした。

台座は奥行きもあり、大きいし、
忠魂碑の周囲は、草刈りも行き届き、
数十人規模の集会が今も可能です。

その有り様から、今も現役だと思えるほどです。
タイムスリップした異様な気分になりました。

その台座は、見ての通り
砲弾型の柱が、柵の鎖を支えています。

忠魂碑への門にあたる部分だけ、
砲弾型ではなく、形状が異なります。
これは、和迩中の忠魂碑と似ています。

「昭和三年十月建立」とあります。

コメント

_ (未記入) ― 2010年10月01日 01時21分25秒

一年生の遠足は、忠魂碑に決まっていました。
周りの木が低かったので、遠くまでよく見えました。
琵琶湖が見えるのに感激したものです。
景色を見ながら食べる「日の丸弁当」は、とても美味しゅうございました。
つずらおりの坂は結構抵抗があり、「登った!」という成就感も味わえました。

_ (未記入) ― 2010年10月01日 05時09分05秒

昭和16年、私はその年から「国民学校」と名の変わった小学校へ入学しました。
そして、その12月8日、大東亜戦争・・・・太平洋戦争が始まりました。
幸い、第一回の遠足は戦争前でしたので、楽しい思い出として残っています。
「ちゅうこんひ」・・・・どんな字を書くのか知らないけれど、みんなそれを知っていましたが、登って遊ぶことは、許されませんでした。
今、写真を見ると、古くはなっているし、でっかい傷跡があるけれども、殆ど昔そのままです。
歴史的には、柵の鎖は、戦後のものです。元の鎖は、戦時中に「鉄」ですから、供出されました。寺の梵鐘、半鐘とともに。
それに、追悼会にお参りし、階段を上がって焼香する御遺族が、だんだん高齢化し、登り難くなったので、手すりが付いています。
戦争がはじまって、妻のおなかに子供を残し、召集されて戦死してしまった夫の子、一度も父親の顔を見たことのない子供が、今年69歳になるんです。
大事な息子を三人も戦争に取られ、死なせ、悲しくても人前では泣けなかった軍国の母は、戦後の厳しい時代を細々と生き抜きましたが、その人が死んで、もう33回忌が終わりました。
今も毎年、8月23日に遺族会の追悼会があります。
お参りの方は、息子娘、兄弟で、連れ合いはもう誰もおられません。
戦争を美化し、国民を鼓舞するために、戦死者を神にする・・・・靖国の原点はそこにあります。
血縁、地縁、仏縁の三縁を切り割く戦争を、二度と許してはいけません。忠魂碑に行く度に、私はそう強く思います。

_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月01日 08時40分42秒

コメントありがとうございました。
私たちの世代には、戦争の時代の記憶がありません。朝鮮戦争すら知識としてしかないのです。同時代のものとして、記憶にきざまれているのは、ベトナム戦争からです。沖縄か日本の基地から米軍が戦場に向かったことは知っていますが、日本人が公式に、また直接参加した戦争ではありませんでした。
 忠魂碑は、まさに日本人が経験した戦争の遺産です。
 私は、忠魂碑をめぐる記憶が地域社会のなかで、受け継がれることが望んでいます。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)