お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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カムさんのお引越し2010/10/04

写真は記事に関係ありません、まぁ、ブログの住所をカエル・・・ぐらいかな
リアルでも、ブログでも

お世話になっているカムさん。

なにやら、ネット内で移転されたとか。

いったいどこに?

文字化けメールを多数いただいています。

たぶん、それがカムさんからのメール?

それで、

やっと

やっと

届きました。

http://osa.typepad.jp/blog/

「海軍中佐 広瀬武夫」パネル@広瀬神社2010/10/04

「海軍中佐 広瀬武夫」パネル@広瀬神社
昨年の末に、竹田市に出かけたときに、
広瀬神社を訪れました。

広瀬神社とは、軍神第一号となった
広瀬武夫中佐を祭神とした神社です。

私は旧い映画でくりかえし見たことがあります。
最近では、「坂の上の雲」ですね、
広瀬中佐の戦死のシーン。
沈没寸前の船で、部下の名前を
呼び続けて、砲弾に直撃されて戦死。

明治37年3月27日、
旅順港閉塞作戦の最中の出来事でした。

多数の戦死者のなか、
どうして、広瀬中佐が
軍神第一号となったのか。

同時代人ではない私の疑問です。

「広瀬神社記」@広瀬神社2010/10/04

「広瀬神社記」@広瀬神社
旧大津陸軍墓地には
日清戦争の戦病死者の個人墓碑が並んでいます。
しかし、日露戦争のものはありません。
4柱の階級別の集団碑があるだけです。

戦死者があまりに多数だったからです。

民間墓地には、階級を問わず、
遺族が建立した墓碑はあります。
そのいくつかは紹介してきました。

砲弾型墓碑も、この戦争の戦没者。

しかし、神社の建立というのは驚きです。

文字通り名もなく亡くなった将兵と比べると、
軍神として扱われ、
神社まで建てられている姿は、
私の理解を超えています。

なぜ?

写真は「広瀬神社記」
理由の一端を見ることができます。

軍神を祭る広瀬神社、昭和10年建立でも神社に変わりはありません2010/10/04

軍神を祭る広瀬神社、昭和の創建でも特別な形をもっていません
日露戦争で戦死した広瀬武夫中佐を祭る広瀬神社。
「創建奉賛会」の尽力で、昭和10(1935)年に落成。

軍事施設や武器を連想させる形態ではありません。

門も拝殿も、ごく普通の神社の形をしていました。

広瀬中佐の遺品のサモワール@広瀬記念館2010/10/04

広瀬中佐の遺品のサモワール@広瀬記念館
広瀬神社の境内に、広瀬記念館があります。
一階はカッター(船)が置かれています。
二階に上がると、神社とは思えぬ雰囲気がありました。

広瀬武夫はロシア研究家でもあり、
様々な軍事的な目的をもって
ロシアで暮らしていました。

ですから、その遺品には、
写真のサモワールのほかに、
ロシア本国で作られた地図など、
ロシアの雰囲気が漂っています。

国粋主義的な雰囲気というより、
国際的な視野をもった明治人の
懐の広さを感じるのです。

広瀬中佐が所持したロシア地図@広瀬記念館2010/10/04

広瀬中佐が所持したロシア地図@広瀬記念館
広瀬記念館で目を奪われたのが、この地図。

軍事的に地図が大事だとか、
そういうことではなくて、
ただ興味深かったのです。

これがほしい・・・と思いました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)