お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
初めてのワンコには、この段差がのぼれないんですね ― 2010/10/06
敗戦2年後の戦病死を刻む墓碑 ― 2010/10/06
大津市北部のある墓地で、「戦病死」と刻まれた墓碑を見つけました。昭和22年4月19日に亡くなったとあります。敗戦は、昭和20年8月15日。つまり、敗戦から戦病死まで1年と少しの期間があるのです。階級は、陸軍歩兵兵長。
この墓碑を目の前にして、考えを巡らしました。
この「陸軍歩兵兵長」さんは、敗戦後、いつ日本に戻れたのか。そして、死去するまでの辛い日々をどう過ごしたのか。
ご本人だけではありません。
家族も複雑な思いで死を迎えたと思います。
”戦死は名誉、戦病死は不名誉”という社会的扱いを受けたことは、八代さんのコメントからもうかがえることでした。ですから、戦争への評価が180度逆転していく世相のなかで、どういう思いで、「戦病死」と刻んだのでしょうか。
戦病死の扱いについての歴史的経過を少し。
日清戦争が終わったあと、靖国神社は二度の臨時大祭を行っています。一度目は、1895(明治28)年12月17日、二度目は1898(明治31)年11月5日。
どういう違いがあったのか。
大江志乃夫氏は、『靖国神社』(岩波新書 1984年)のなかで次のように書いています。横書きなので、漢数字をアラビア数字まじりにかえています。
98年の臨時大祭については、記事をあらためて書くことにします。
この墓碑を目の前にして、考えを巡らしました。
この「陸軍歩兵兵長」さんは、敗戦後、いつ日本に戻れたのか。そして、死去するまでの辛い日々をどう過ごしたのか。
ご本人だけではありません。
家族も複雑な思いで死を迎えたと思います。
”戦死は名誉、戦病死は不名誉”という社会的扱いを受けたことは、八代さんのコメントからもうかがえることでした。ですから、戦争への評価が180度逆転していく世相のなかで、どういう思いで、「戦病死」と刻んだのでしょうか。
戦病死の扱いについての歴史的経過を少し。
日清戦争が終わったあと、靖国神社は二度の臨時大祭を行っています。一度目は、1895(明治28)年12月17日、二度目は1898(明治31)年11月5日。
どういう違いがあったのか。
大江志乃夫氏は、『靖国神社』(岩波新書 1984年)のなかで次のように書いています。横書きなので、漢数字をアラビア数字まじりにかえています。
95年の臨時大祭は、敵との戦闘で戦死したか負傷したのちに死んだ者を合祀する臨時大祭であった。これまでの合祀基準(明治11年6月27日太政官への伺)では、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は含まれていたが、戦病死者は含まれていなかった。日清戦争の戦没者1万3267名のうち1万1427名(うち海軍107名)が戦病死者(戦没者全体の86%)であった。そして、こう率直に指摘しています。
何より驚かされるのは、日清戦争直後まで、日本の国家は戦病死者を国家のために殉じた名誉ある死者として認めていなかったとことである。戦病死は不名誉な犬死とみなされた。しかし、実際の数字がしめすように、外征戦争における従軍戦没者の大部分は戦病死であるのが19世紀の世界の戦争の実際であった。このことは、クリミア戦争におけるナイチンゲールの活動のエピソードがしめしているとおりである。
98年の臨時大祭については、記事をあらためて書くことにします。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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