お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「戦病死」という言葉の扱い=明治44年大津市誌などから ~八代さんへ~ ― 2010/10/10
「戦病死」という言葉を、私があまり深く考えずに使ってきたことを、八代さんの指摘で、よくわかりました。つらいことですが、戦死は名誉として扱われ、戦病死は不名誉とされた時代があったことを配慮せず、二つ合わせて、「戦病死」という言葉で扱ってきたからとです。
そこであらためて、言葉の整理をしようと思います。
例の陸軍墓地にある日露戦争合葬碑に刻まれている文言ですが、私が、動揺していましたが、
明治三十七八年戦 没 将校同相當官戦病死者合葬碑
ではなく、
明治三十七八年戦 役 将校同相當官戦病死者合葬碑
です。 つまり、これは「戦病死者」の合葬碑なのです。
この「戦病死者」という言葉は、戦死者、戦傷死者、戦病死者を含む意味で使われていると思います。
その根拠は、明治44年に編纂された『大津市志』や、昭和27年に編纂されている『近江伊香郡誌』などの表記です。
これら公が編んだ公式の地方史では、「戦病死者」という見出しのあとに、戦死者も、戦病死者も含まれています。
上の写真は、『近江伊香郡誌』の西南戦争の「戦病死者」の名簿のページです。下の備考を見ると戦死者が入っているのがわかります。
ですから、日露戦争(明治三十七八年戦役)の合葬碑も、このつもりで「戦病死者」と刻んだと思われます。
こうして区別を抹殺した表記がされていると同時に、靖国神社は、戦死者と戦病死者の間に歴然とした差別をしています。
私には、靖国神社が、戦死者と区別しながら、戦病死者も「特祀」した事情と重なるものを感じます。つまり、国民感情を配慮した・・・いい意味ではなく・・・という意味ですが。
そこであらためて、言葉の整理をしようと思います。
例の陸軍墓地にある日露戦争合葬碑に刻まれている文言ですが、私が、動揺していましたが、
明治三十七八年戦 没 将校同相當官戦病死者合葬碑
ではなく、
明治三十七八年戦 役 将校同相當官戦病死者合葬碑
です。 つまり、これは「戦病死者」の合葬碑なのです。
この「戦病死者」という言葉は、戦死者、戦傷死者、戦病死者を含む意味で使われていると思います。
その根拠は、明治44年に編纂された『大津市志』や、昭和27年に編纂されている『近江伊香郡誌』などの表記です。
これら公が編んだ公式の地方史では、「戦病死者」という見出しのあとに、戦死者も、戦病死者も含まれています。
上の写真は、『近江伊香郡誌』の西南戦争の「戦病死者」の名簿のページです。下の備考を見ると戦死者が入っているのがわかります。
ですから、日露戦争(明治三十七八年戦役)の合葬碑も、このつもりで「戦病死者」と刻んだと思われます。
こうして区別を抹殺した表記がされていると同時に、靖国神社は、戦死者と戦病死者の間に歴然とした差別をしています。
私には、靖国神社が、戦死者と区別しながら、戦病死者も「特祀」した事情と重なるものを感じます。つまり、国民感情を配慮した・・・いい意味ではなく・・・という意味ですが。
戦闘死した村治昭少尉(21歳)の場合~日露戦争の一回目の臨時大祭(明治38年5月)で合祀~ ― 2010/10/10
靖国神社には、「合祀基準」というものがあり、戦没したただけでは、合祀されませんでした。死に方が問題なのです。
明治 11(1878)年6月27日太政官への伺いでは、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は合祀の対象でした。しかし、戦病死者は含まれていませんでした。
戦病死者は、明治31(1898)年に陸軍大臣告示がだされ、特別合祀となりました。つまり、合祀することが基本になったのではなく、特例で認めたにすぎません。基準は日露戦争でも変わりませんでした。
つまり、戦病死者は、日露戦争でも、あくまで特別合祀でした。戦死者などの合祀とは別に、遅れて行われました。つまり、時間的にも差別をうけたのでした。
段々畑のような傾斜をもつ旧大津陸軍墓地の最上段に、将校だけの墓地がつくられています。大小さまざまな十数柱の墓碑が並んでいます。
ここに村治昭少尉の墓碑があります。
いくつかの墓碑をはさんで左には、父親である陸軍二等軍医正村治重厚陸軍二等の立派な墓碑が建っています。
村治少尉については、まえにもブログで書きました。
明治44年の『大津市志』の「人物志」には、つぎのような記事がありました。
二回目は、明治三十九(1906)年五月でした。
明治 11(1878)年6月27日太政官への伺いでは、戦闘死者、戦傷死者、戦闘中の事故死者、敵の捕虜となって死亡した者は合祀の対象でした。しかし、戦病死者は含まれていませんでした。
戦病死者は、明治31(1898)年に陸軍大臣告示がだされ、特別合祀となりました。つまり、合祀することが基本になったのではなく、特例で認めたにすぎません。基準は日露戦争でも変わりませんでした。
つまり、戦病死者は、日露戦争でも、あくまで特別合祀でした。戦死者などの合祀とは別に、遅れて行われました。つまり、時間的にも差別をうけたのでした。
段々畑のような傾斜をもつ旧大津陸軍墓地の最上段に、将校だけの墓地がつくられています。大小さまざまな十数柱の墓碑が並んでいます。
ここに村治昭少尉の墓碑があります。
いくつかの墓碑をはさんで左には、父親である陸軍二等軍医正村治重厚陸軍二等の立派な墓碑が建っています。
村治少尉については、まえにもブログで書きました。
明治44年の『大津市志』の「人物志」には、つぎのような記事がありました。
大津市神出見ての通り、村治少尉は、日露戦争で二回行われた臨時大祭のうち、最初のときに、合祀されたのです。
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 村治 昭
明治十六年二月十七生
明治三十四年十二月士官候補生出身歩兵第九聯隊小隊長として三十七八年戦役従軍各地戦闘明治三十七年八月三十一日遼陽付近の戦闘に於いて面部貫通銃創を受け戦死同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章並に功五級金鶏勲章従軍記章を賜はり同三十八年五月靖国神社に合祀せらる。
二回目は、明治三十九(1906)年五月でした。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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