お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

戦傷死した鎌倉誠一少尉(23歳)の場合~日露戦争の第一回目の臨時大祭で合祀~2010/10/11

23歳で戦傷死した鎌倉少尉の墓碑@旧大津陸軍墓地
 戦死した村治少尉につづいて、戦傷死した鎌倉少尉の場合はどうなったでしょうか。

 鎌倉誠一少尉について、明治44年の『大津市志』の「人物志」はつぎのように記録しています。
大津市上百石町百三十番屋敷
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 鎌倉 誠一
明治十四年五月八日生
明治三十一年中央幼年学校出身歩兵第二十聯隊小隊長として三十七八年戦役従軍各地戦闘三十七年九月三日清国遼陽付近の戦闘に於て左胸及前膊貫通銃創を受け同月六日「シュジャトウン」野戦病院に於て負傷により死亡同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章及功五級金鶏勲章並に従軍記章を賜はり同三十八年五月に靖国神社に合祀せられる。
 つまり、鎌倉少尉は、戦闘により受けた傷で三日後に病院で亡くなりました(戦傷死)。23歳でした。
そして、第一回目の大祭で合祀されたのです。

戦死した小野八三郎上等兵(21歳)の場合~日露戦争の第二回目の大祭で合祀~2010/10/11

無縁仏状態で置かれていた陸軍歩兵上等兵小野八三郎の墓碑
 日露戦争では、臨時大祭を二回行い、合計で60,843名が合祀されました。一回目と二回目はどうちがうのか。戦死した時期が違うからだと(一回目の合祀に間に合わなかった)思います。
 二回目の臨時大祭で合祀された兵卒の墓碑が、無縁仏状態で墓地の塀にもたせ掛けておかれていました。

 それが、「陸軍歩兵上等兵小野八三郎墓」でした。

 ずいぶん前に紹介しましたが、明治44年の『大津市志』「人物志」に記事がありました。
大津市肥前町一番屋敷
陸軍歩兵上等兵勲八等 小野八三郎
明治十五年十月二十日生
明治三十五年徴兵。補充兵役として歩兵第九連隊に属し、三十七八年戦役(日露戦争のこと)従軍各地戦闘。明治三十八年三月二日清国北台子戦闘に於て面部刺創を受け戦死。同日叙勲八等白色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ、同三十九年五月靖国神社に合祀せらる。

巡行を終えて山車がもどってきます@大津祭り2010/10/11

巡行を終えて山車がもどってきます@大津祭り
10月10日は、大津祭りの山鉾巡行。

一番賑やかな祭りですが、年中行事なので、
出かけるつもりはありませんでした。

巡行が終わった夕方に、
クーと一緒に散歩に出かけました。

そして、各町の格納場所に
戻る山車のいくつかに出会いました。

もちろん、お囃子は続いていました。

クーは気の毒に、一時的に
歩かせてもらえませんでした。

2月のチーの写真 ~目がうまく開かなかった~2010/10/11

2月のチーの写真 ~目がうまく開かなかった~
手のひらサイズだった頃のチー・ネコくん。

目がうまく開かなかったのは、

病気なのか、栄養不足なのか。

毛並みもよくありませんでした。

日露戦争での「特別合祀」 ~明治37年に赤痢病で戦病死した陸軍歩兵曹長の場合~2010/10/11

 『大津市志』(明治44年版)の「人物志」には、戦没者の略歴が載っています。それらは、靖国神社への合祀の日付で締めくくられています。 日露戦争関係では、明治38年5月や39年5月、また明治40年5月や明治41年5月と書かれています。

 合祀の年月の違いを、これまで全然気にとめませんでした。

 最初に見た村治少尉の場合も、鎌倉少尉の場合も、戦死・戦傷死した年月日は、明治37年8月末から9月始めでした。ですから、明治38年5月に行われた第一回の臨時大祭で、合祀されたのでしょう。
 小野八三郎上等兵は、明治38年3月の戦死。直近でしたから、同年の5月に合祀は間に合わず、翌39年5月の二回目の臨時大祭で追加合祀されたことは、納得がいきます。

 ですが、年月日では説明のできない合祀年月が出てきます。
 たとえば、富和義哉陸軍歩兵曹長の場合。
 死亡年月日は、明治37年10月18日。合祀は、明治40年5月。

 答えは、戦病死だからです。
「特別合祀」、つまり合祀基準には合わないが特別に認められて、明治40年5月に靖国神社に合祀されたのです。
 本人で選び取ることができない戦没のあり方、つまり、戦闘死か、戦病死かをめぐって、差別が存在することが見えてきます。
 『大津市志』「人物志」の記述を抜き書きしておきます。
大津市上関寺町十一番地
陸軍歩兵曹長勲七等 富和義哉
慶応二年五月十六日生
明治二十年徴兵出身後備役として第四師団石関兵站司令部に属し三十七八年戦役従軍明治三十七年十月十八日清国南風房店兵站病院に於て赤痢病の為め死亡同日叙勲七等青色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ同四十年五月靖国神社に合祀せらる。

 どこにも、「特祀」とは書いていませんが、同じ明治三十七年の戦没なのに、明治三十八年どころか、明治40年まで放置されていたわけです。

明治40年5月に「特祀」された戦没者@(旧)大津市2010/10/11

「特祀」の一人「陸軍歩兵二等卒山本治三郎墓」には、病死と刻まれている
 すでに紹介しましたが、日露戦争の際、二度にわたって臨時大祭が開かれ、「合祀基準」をみたす戦没者が靖国神社に合祀されました。6,0843名でした。
 これから遅れること、1年、明治40年5月に「合祀基準」を満たさない戦病死者などを対象として、「特別合祀(特祀)」が行われました。このときは、24,657名でした。(大江志乃夫『靖国神社』による)

『大津市志』(明治44年)の「人物志」をもとに整理すれば、明治40年5月に「特祀」されたのは、以下の人たちです。

陸軍歩兵曹長 富和 義哉
  大津市上関寺町十一番地
  明治三十七年十月十八日
    赤痢病で死亡

陸軍歩兵上等兵 芝田 清三郎
  大津市北保町十四番地
  明治三十七年九月五日
  脚気病で死亡

陸軍歩兵一等卒 杉本 熊吉
  大津市菱屋町二十五番地
  明治三十七年十月十三日
  赤痢病で死亡

陸軍歩兵一等卒 市田 清兵衛
  大津市川口町十八番地
  明治三十八年十月三十一日
  肺壊疽兼肺気腫病で死亡

陸軍歩兵一等卒 田中 弥四郎
  大津市境川町六十三番地
  明治三十八年九月二十二日
  沈降膿腫兼右湿性肋膜炎により死亡

陸軍歩兵二等卒 勝野 伊三郎
  大津市柳町十五番屋敷
  明治三十七年十月十九日
  急性大腸カタル兼脚気病で死亡

陸軍歩兵二等卒 岸田 忠蔵
  大津市中堀町十二番地
  明治三十八年一月十五日
  腸チフスで死亡

陸軍歩兵二等卒 山本 治三郎
  大津市柳町八番屋敷
  明治三十八年四月二十三日
  脚気病で死亡

陸軍輜重輸卒 長瀬 甚之助
  大津市馬場七十三番地
  明治三十八年三月十四日
  脚気病で死亡

陸軍輜重輸卒 大西 米蔵
  大津市下栄町六十八番屋敷
  明治三十八年四月二十六日
  猩紅熱兼黄疸症で死亡

陸軍輜重輸卒 石井 音次郎
  大津市別所六番屋敷
  明治三十八年六月九日(発病)
  脚気病で死亡

陸軍輜重輸卒 田中 卯之助
  大津市水揚町十八番地
  明治三十八年九月十八日
  赤痢病兼腸チフス症で死亡

陸軍輜重輸卒 臼井 猪奈次郎
  大津市上博労町二十六番地
  明治三十八年八月三十日
  腸チフス症で死亡

陸軍輜重輸卒 阿蘇 利三郎
  大津市中保町四十番屋敷
  明治三十八年八月二十三日
  脚気症で死亡

元陸軍輜重輸卒 奥村庄五郎
  大津市馬場五百四十九番地の内一
  明治三十九年六月三十日
  肺結核症で死亡

元陸軍輜重輸卒 木村 弥惣吉
  大津市上片原町五番地
  明治三十九年五月四日
    肺結核症で死亡

鉄道庁雇員 片岡 忠三
  大津市大谷町九十五番地
  明治三十七年十月二十六日
  心臓麻痺で死亡

メモ 明治44年『大津市志』の大津市の領域とは2010/10/11

自分のためのメモです。

2010年現在の大津市は、464万平方キロメートル。
総人口は、33万人を超えている。
しかし、明治44年=1911年は、そうではなかった。

同じ「大津市」でも、イメージするものが違うのである。

明治44年版『大津市志』でいう「大津市」は、
滋賀学区と膳所学区に挟まれた狭い地域をさす。
いわゆる旧大津。大津町。

つまり、現在でいくと、
○平野学区(?)
○長等学区
○逢坂学区
○中央学区
(そして藤尾学区?)

『大津市志』に掲載されている戦死者や
戦病死者の墓地を捜す場合、忘れてはいけないポイント。

町名も旧いものが多い。
私の年代でも記憶しているものがあるが、
わからなものが多い。
ただし、行政的には使われていないが、
自治会や運動会などでは登場する。
どっこい生きているのである。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)