お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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マキノにあった4基の忠魂碑、いまはどれだけ残っているのか2010/10/13

マキノの海津公園、忠魂碑は右手に小さく見えます
 民間墓地で戦死者の墓碑に出会うとき、純粋にかかわりのあった人々の悲しみに触れる思いです。複雑な思いになるのは、墓地の入口に威圧するような大きさで建てられた墓碑の場合です。戦争をすすめた政府の思惑が重なって、死んだあとも、戦争での死を鼓舞する役割を負わされているのかと、暗澹とした気持ちになります。

 忠魂碑は、別です。

 それは最初から、戦争を鼓舞する目的で建てられています。その前で、戦死者、戦病死者を悼む行事が繰り返し行われたにしてもです。
 戦後に、アメリカ占領軍などを考慮して、撤去された忠魂碑や破壊された忠魂碑があります。なかには、折れた形を残して復元されたものもあります。また、新しく建て直されたものもあるでしょう。
 忠魂碑の運命は、最初から、社会の戦争認識と重なっているのです。

 マキノの場合はどうでしょうか。

 以前にも、書いたことがあります。
『マキノ町誌』(昭和62年)に見る忠魂碑の記述
そこでも引用しました。
各村では「村葬」として、村当局、在郷軍人会・婦人会・青年団・小学生たちなどまで遺骨を迎え、葬列を整えて小学校などの村葬会場に参集し盛大に霊を弔った。当時、各村にあった忠魂碑に合祀たのである。忠魂碑は海津村では且過に、剣熊村では小荒路に、西庄村では広野に、百瀬村では新保にあった。

そして、『「あった」という記述をそのまま受け取れば、廃棄されたという意味ではないか』と書きました。

 昨日、八代さんが回っていただきましたので、剣熊村は不明でしたが、西庄村では旧の場所に新設され、百瀬村には存在が確認されました。
 海津村は海津公園にあるのを知っています。ただ公園が「且過」という地名にあたるのかどうかは、私ではわかりません。

現在の大津市に忠魂碑は何基あったのか2010/10/13

昭和16(1941)年発行『碑と塚』から
 大津市役所が昭和16(1941)年に発行した『碑と塚』という小冊子があります。それを最初に手に入れたとき、不思議に思っていました。「戦役に関するもの」という章があり、忠魂碑が紹介されていますが、とても数が少なかったからです。滋賀町、石山町、膳所町の3基だけしかありません。当初は、これはいくつかあるうちから、選ばれて掲載されたと思っていました。・・・相変わらず、のんきなものです。 しかし、考えれば変です。網羅的に紹介されていますから、選んでというのはありえないのです。
そこで、 やっと気がつきました。
 「大津市で何基の忠魂碑がある?」といった場合、編入合併との関係を忘れてはいけない・・・のでした。

時系列を逆にたどれば、つぎのようになります。
2006(平成18)年 志賀町を合併
1967(昭和42)年 瀬田町と堅田町を合併
1951(昭和26)年 雄琴村、坂本村、下阪本村、大石村、下田上村を合併
1933(昭和8)年 膳所町、石山町を合併(新制大津市)
1932(昭和7)年 滋賀村を合併
1898(明治33)年 市制施行で大津市となる

 忠魂碑の建立が明治43(1910)年以降とすれば、つじつまが合うのです。旧制大津市に忠魂碑がないというのは変ですが、昭和7(1932)年に合併した滋賀村にも、昭和8(1933)年に合併した膳所町石山町に、それぞれ大正時代までに建立されていて当然なのです。だいたい一町村に一つという指令があったはずですから。
 となると、昭和16年に編まれた『碑と塚』は、当時の大津市内にあった忠魂碑を網羅しているということになります。

この小冊子『碑と塚』には、三つの忠魂碑の写真があります。
せっかくですから、内容を紹介します。
○滋賀村の忠魂碑
滋賀村の忠魂碑
 自分の馬鹿さ加減をいうのも変ですが、「滋賀村」という表記で、旧志賀町を思い浮かべていて、それを探していたのですから。
 現在の滋賀学区をさがすべきでした。ということでまだ発見していません。
 この文献によれば、「滋賀町」の忠魂碑は、志賀国民学校内に建立されました。陸軍大将男爵 田中儀一の書だそうです。大正11年10月建立。碑文は『明治十年西南の役以来日清日露の戦役に出征して殉国の花と散った元滋賀村区内の戦没勇士の武勲を顕彰すべく大正十一年十月村会の決議によって建設したものである』と紹介されています。
○石山町の忠魂碑
石山町の忠魂碑
「安直書」とあります。建立は大正五年九月です。
モダンな形をしています
石山寺辺町にあるそうなのですが、二度にわたって探しましたが、所在がわかりませんでした。
○膳所町の忠魂碑
膳所町の忠魂碑
昭和七年三月建立。陸軍大将鈴木荘六書とあります。
これもまだ見つけられません。膳所公園に類したものがありますが、これがあるということは、廃棄された可能性もあるということでしょうか。
さて、現在の大津市に戻ります。

こうして考えれば、戦後に編入合併した町村に一つずつ忠魂碑があって当然となります。
○「雄琴村」   未発見
○「坂本村」   見つけました。
○「下坂本村」  見つけました。
○「大石村」   見つけました。忠霊塔
○「下田上村」  未発見
○「瀬田村」   一つ発見。軍人勅諭が刻まれています
○「堅田村」   見つけました。

これで探す目標がはっきりしました。
場所などご存じの方、情報提供をお願いします。

ちなみに、旧制大津市には、西南戦争の碑や日清戦争の碑などがあります。これらは、ブログで紹介しました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)