お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
渡辺治・伊藤道夫編『「新しい戦争」の時代と日本』(戦争と現代1) ― 2010/10/17
包括的に、現代の戦争について考えたいと思っていました。
『講座 戦争と現代』のシリーズに注目し、全巻を買ってきました。パラパラとめくり、山田朗氏の「現代における<軍事力編成>と戦争形態の変化」(第三章)から、読み始めました。とりあえず、歴史的・具体的なものからがいいと。そして、この章は読了。
『講座 戦争と現代』のシリーズに注目し、全巻を買ってきました。パラパラとめくり、山田朗氏の「現代における<軍事力編成>と戦争形態の変化」(第三章)から、読み始めました。とりあえず、歴史的・具体的なものからがいいと。そして、この章は読了。
旧大津陸軍墓地の墓碑の記録と調査を再開 ~Kブロックから~ ― 2010/10/17
旧大津陸軍墓地は、日本陸軍歩兵第九聯隊の訓練中に亡くなった兵卒の墓地として設置されましたが、歴史の変遷のなかで、日清戦争へ出征し病死した下士官・兵卒の墓地まで含むようになりました。さらに、捕虜の墓碑も。
私がKとLという名前をつけたブロックは、その本来の機能を果たしている墓地です。もともとは、上段=将校、中段=下士官、下段=兵卒という秩序で、斜面に沿って棚田型に墓地が造営されました。現在は、二段しかありません。KとLは、下段にあり、墓地を縦断する通路にそって、東西に分かれていました。1976年に湖西バイパス建設工事のために破壊され、中段の墓地を谷を埋めて横に広げた場所に移設されたのです。
明治10年代から大正時代まで(後年に彦根から移設されたものは明治5年に亡くなった兵卒の墓碑)に大津営所で病死した兵卒の墓碑が並んでいます。
Kブロックは139基の墓石からなっています。それには、私なりのID番号がふってあります。その番号を活用しながら、紹介していくつもりです。
全部で139基の番号の振り方は、つぎのようにしました。各列の番号は、右から左へです。
第8列 K131~K139 最後列
第7列 K117~K130
第6列 K103~K116
第5列 K086~K102
第4列 K052~K085
第3列 K035~K051
第2列 K018~K034
第1列 K001~K017 最前列
なお、墓碑そのものは、後列の方が古いのです。ですから、記録する順番は番号の大きいものからにしました。
私がKとLという名前をつけたブロックは、その本来の機能を果たしている墓地です。もともとは、上段=将校、中段=下士官、下段=兵卒という秩序で、斜面に沿って棚田型に墓地が造営されました。現在は、二段しかありません。KとLは、下段にあり、墓地を縦断する通路にそって、東西に分かれていました。1976年に湖西バイパス建設工事のために破壊され、中段の墓地を谷を埋めて横に広げた場所に移設されたのです。
明治10年代から大正時代まで(後年に彦根から移設されたものは明治5年に亡くなった兵卒の墓碑)に大津営所で病死した兵卒の墓碑が並んでいます。
Kブロックは139基の墓石からなっています。それには、私なりのID番号がふってあります。その番号を活用しながら、紹介していくつもりです。
全部で139基の番号の振り方は、つぎのようにしました。各列の番号は、右から左へです。
第8列 K131~K139 最後列
第7列 K117~K130
第6列 K103~K116
第5列 K086~K102
第4列 K052~K085
第3列 K035~K051
第2列 K018~K034
第1列 K001~K017 最前列
なお、墓碑そのものは、後列の方が古いのです。ですから、記録する順番は番号の大きいものからにしました。
小学生150人が旧大津陸軍墓地を見学 ― 2010/10/17
先日、墓地の奉賛会の奥村会長さんに、旧大津陸軍墓地でお出会いしました。墓地の清掃に来られたのか、工事のために来られてのか、わかりませんでしたが、ともかく、「おひさしぶりです」の挨拶をしました。
会長さんによれば、二週間ほど前に、地元の小学校から先生が150人ほどの生徒さんを連れて、見学にきたとのことです。そして、奥村会長さんが説明。感想文を寄せていただいたとのことでした。
「墓地はじまっていらいの画期的なことです」
ということでした。
若い世代がこの墓地の存在を知り、考え始めるのはいいことです。
広島に修学旅行に行くときに、向こうの陸軍墓地なども見るので、大津のものも見てからにしようと企画されたとのことでした。
現在墓地周辺では、バイパスの防音壁の設置中。
1970年代後半、奥村会長らはバイパスが墓地を横断することに反対しましたが、行政と議員の圧力で押し切られました。墓地は移設を余儀なくされ、原型を残すことができませんでした。それは残念なかぎりです。小学生たちは、この経過を知り、それはよくないという反応だったということでした。
会長さんによれば、二週間ほど前に、地元の小学校から先生が150人ほどの生徒さんを連れて、見学にきたとのことです。そして、奥村会長さんが説明。感想文を寄せていただいたとのことでした。
「墓地はじまっていらいの画期的なことです」
ということでした。
若い世代がこの墓地の存在を知り、考え始めるのはいいことです。
広島に修学旅行に行くときに、向こうの陸軍墓地なども見るので、大津のものも見てからにしようと企画されたとのことでした。
現在墓地周辺では、バイパスの防音壁の設置中。
1970年代後半、奥村会長らはバイパスが墓地を横断することに反対しましたが、行政と議員の圧力で押し切られました。墓地は移設を余儀なくされ、原型を残すことができませんでした。それは残念なかぎりです。小学生たちは、この経過を知り、それはよくないという反応だったということでした。
「二等喇叭卒 鵜飼万治郎墓」@旧大津陸軍墓地 K136 ― 2010/10/17
旧大津陸軍墓地のKブロックの最後列の墓碑は、全部で9基あります。そのうち、左の5つは、明治40年代に、彦根から移設されたものです。第十八番大隊の兵卒のもの。
上の写真で見ても、左手に見える5柱は、形が違います。基礎の石も大きいし、かまぼこ型です。それらについては、すでに調べて、ブログに掲載しています。
ちなみに、第九聯隊の営所が大津市に創られたのは、明治8(1875)年のことです。訓練中の病死者は、その年から発生しています。明治8年から11年までの、病死者の墓地はFブロックに置かれています。
最初の墓碑は、「二等喇叭卒」という階級の兵卒の墓碑です。
「喇叭」=ラッパですね。
旧大津陸軍墓地のKブロックには、喇叭卒の墓碑が、あと2柱ぐらいあります。
西南戦争のときの第九聯隊の喇叭卒の墓碑が、旧真田山陸軍墓地にあります。「喇叭卒水口直次郎」の墓碑です。
基礎についてですが、Kブロックの墓碑には、一段のものもあれば、二段のものもあります。ざっと観察したところでは、旧い時代は二段、新しいものは一段のようです。
この墓碑の基礎は二段ですね。
碑文は、Kブロックでは、あとの時代になるほど簡略になります。鵜飼万治郎の墓碑の場合は、碑文は左右に分けて刻まれています。
後部はなにも刻まれていません。
上の写真は右側面です。
冒頭に「滋賀県」という文字が読み取れます。碑文は二行。
風雪によって摩耗した碑文は、じっと目をこらしていると、断片的にわかるようになってきます。そして、文章としてつながってくるのですが、久しぶりなので、まだわかりません。
三番目の写真は、左側面。
碑文は様式が定まっているようです。
左側面には、「明治十年六月二日応徴大阪鎮台入営」などの軍隊歴からはじまり死亡の記事で終わります。つまり、入営年月日とか、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢などが刻まれているはずです。
・・・最後は「病死二十一年九月」と読めます。
他の墓碑の碑文と照らし合わせながら、さらにわかってくるので、そのときに、読み取った碑文全体を掲載することにします。
・・・(Kブロックでは)あと133基です。先は長いです。
写真撮影はけっこうな労働です。墓碑の回りを360度まわり、90度ごとにしゃがんで撮影します。1基あたり最低5枚、それを135回繰り返しました。日も時間も限られていますから、一気にやりきりました。二三日太ももが痛くて、階段が辛くなりました。
上の写真で見ても、左手に見える5柱は、形が違います。基礎の石も大きいし、かまぼこ型です。それらについては、すでに調べて、ブログに掲載しています。
ちなみに、第九聯隊の営所が大津市に創られたのは、明治8(1875)年のことです。訓練中の病死者は、その年から発生しています。明治8年から11年までの、病死者の墓地はFブロックに置かれています。
最初の墓碑は、「二等喇叭卒」という階級の兵卒の墓碑です。
「喇叭」=ラッパですね。
旧大津陸軍墓地のKブロックには、喇叭卒の墓碑が、あと2柱ぐらいあります。
西南戦争のときの第九聯隊の喇叭卒の墓碑が、旧真田山陸軍墓地にあります。「喇叭卒水口直次郎」の墓碑です。
基礎についてですが、Kブロックの墓碑には、一段のものもあれば、二段のものもあります。ざっと観察したところでは、旧い時代は二段、新しいものは一段のようです。
この墓碑の基礎は二段ですね。
碑文は、Kブロックでは、あとの時代になるほど簡略になります。鵜飼万治郎の墓碑の場合は、碑文は左右に分けて刻まれています。
後部はなにも刻まれていません。
上の写真は右側面です。
冒頭に「滋賀県」という文字が読み取れます。碑文は二行。
風雪によって摩耗した碑文は、じっと目をこらしていると、断片的にわかるようになってきます。そして、文章としてつながってくるのですが、久しぶりなので、まだわかりません。
三番目の写真は、左側面。
碑文は様式が定まっているようです。
左側面には、「明治十年六月二日応徴大阪鎮台入営」などの軍隊歴からはじまり死亡の記事で終わります。つまり、入営年月日とか、死亡年月日、死亡場所、死亡年齢などが刻まれているはずです。
・・・最後は「病死二十一年九月」と読めます。
他の墓碑の碑文と照らし合わせながら、さらにわかってくるので、そのときに、読み取った碑文全体を掲載することにします。
・・・(Kブロックでは)あと133基です。先は長いです。
写真撮影はけっこうな労働です。墓碑の回りを360度まわり、90度ごとにしゃがんで撮影します。1基あたり最低5枚、それを135回繰り返しました。日も時間も限られていますから、一気にやりきりました。二三日太ももが痛くて、階段が辛くなりました。
今晩もクーとお散歩 ― 2010/10/17
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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