お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
兵卒の墓碑の階級名 Ⅰ ~K001からK017まで~ ― 2010/10/19
Kブロックは、明治10年代から大正にかけて、大津営所で病死した兵卒の墓地が整然と9列に並んでいます。全部で139柱ですが、例外として、彦根から移設した5柱と清国俘虜の墓碑2柱が混じっています。
バイパス工事がはじまる1970年代半ばまでは、Kブロックがある場所は谷にすぎませんでした。墓地が存在しなかったのです。
兵卒の墓地は、いまの敷地より下手に細長く伸びていました。中央の通路をはさんで、西側と東側に分けられ、病死した兵卒は上手から順番に埋葬されていきました。
当時の写真が存在します。
大津市が移設にともなって撮影し、わずかな枚数ですが保存されています。情報公開で見ることができます。全体の姿を写したものはありませんでしたが、立ち木を避けながら、整然と配置されている様子はうかがうことはできました。
細長く傾斜した敷地の西には、135柱。東には、103柱。合計で、238柱が並んでいました。
東側の下手には、日露戦争の兵卒の集団碑が建てられ、西側の下手には、六体地蔵が並んでいました。
・・・いまでは図面から想像するしかありません。
1970年代中ごろに、バイパスが墓地を通過する計画が持ち上がりました。奉賛会のみなさんの反対にもかかわらず、強行され、明治10年につくられた兵卒の墓地は破壊されました。しかし、反対の甲斐があって、238柱の墓碑は、1柱も失われることなく、KブロックとLブロックの2箇所に分けられて移葬されました。西側は主にKブロック、東側は主にLブロックというように。
旧い墓地の記録が残っていますので、どの墓碑がどこに移葬されたかをたどることができます。
さて、本来の記事に戻ります。
Kブロックで墓碑の記録と調査をはじめたとき、まず墓碑の階級名が気になりました。
昭和の時代まで、日本陸軍の兵卒には、「二等卒」「一等卒」「上等兵」の三階級ありました。「生兵」はすでに紹介したように、二等卒の階級をもらえない訓練中の兵を意味していました。
墓碑にも、これらの階級が刻まれています。たぶん、同一に・・・と思っていました。
しかし、同じ階級でも、同一とは限りませんでした。なかには、三つの区分にない「上等卒」と刻まれたものがあるくらいです。Kブロックの墓碑は、階級の呼称が確定する途上を示しているのかも知れません。
下の表の西以下の数字は、元の位置を示しています。大津市の記録は参考になりましたが、間違っているものもあります。墓碑に即して、訂正しました。訂正箇所は、太字になっています。
一見してわかることは、「(故)陸軍歩兵」が階級のまえにつく墓碑が多いことです。例外は、K012で「二等兵卒」とあるのみ。これは、兵卒が葬られた時期に関係すると思います。大津市が残した資料には、墓碑から死亡年月を抜書きしたものがものがあります。それとの対照表をつくりました。
指摘するまでもなく、傾向ははっきりしています。
バイパス工事がはじまる1970年代半ばまでは、Kブロックがある場所は谷にすぎませんでした。墓地が存在しなかったのです。
兵卒の墓地は、いまの敷地より下手に細長く伸びていました。中央の通路をはさんで、西側と東側に分けられ、病死した兵卒は上手から順番に埋葬されていきました。
当時の写真が存在します。
大津市が移設にともなって撮影し、わずかな枚数ですが保存されています。情報公開で見ることができます。全体の姿を写したものはありませんでしたが、立ち木を避けながら、整然と配置されている様子はうかがうことはできました。
細長く傾斜した敷地の西には、135柱。東には、103柱。合計で、238柱が並んでいました。
東側の下手には、日露戦争の兵卒の集団碑が建てられ、西側の下手には、六体地蔵が並んでいました。
・・・いまでは図面から想像するしかありません。
1970年代中ごろに、バイパスが墓地を通過する計画が持ち上がりました。奉賛会のみなさんの反対にもかかわらず、強行され、明治10年につくられた兵卒の墓地は破壊されました。しかし、反対の甲斐があって、238柱の墓碑は、1柱も失われることなく、KブロックとLブロックの2箇所に分けられて移葬されました。西側は主にKブロック、東側は主にLブロックというように。
旧い墓地の記録が残っていますので、どの墓碑がどこに移葬されたかをたどることができます。
さて、本来の記事に戻ります。
Kブロックで墓碑の記録と調査をはじめたとき、まず墓碑の階級名が気になりました。
昭和の時代まで、日本陸軍の兵卒には、「二等卒」「一等卒」「上等兵」の三階級ありました。「生兵」はすでに紹介したように、二等卒の階級をもらえない訓練中の兵を意味していました。
墓碑にも、これらの階級が刻まれています。たぶん、同一に・・・と思っていました。
しかし、同じ階級でも、同一とは限りませんでした。なかには、三つの区分にない「上等卒」と刻まれたものがあるくらいです。Kブロックの墓碑は、階級の呼称が確定する途上を示しているのかも知れません。
下の表の西以下の数字は、元の位置を示しています。大津市の記録は参考になりましたが、間違っているものもあります。墓碑に即して、訂正しました。訂正箇所は、太字になっています。
最前列 K001~K017 太字は訂正
K001 故陸軍歩兵一等卒 青山 喜代治? 西1
K002 故陸軍歩兵上等兵 青山 ○之助 西2
K003 故陸軍歩兵上等兵 青山 捨吉 西3
K004 故陸軍歩兵一等卒 瀬戸 喜蔵 西4
K005 陸軍歩兵二等卒 藤井 新蔵 西5
K006 故陸軍歩兵二等卒 川上 重太郎 西6
K007 故陸軍歩兵二等卒 洞 栄作 西7
K008 故陸軍歩兵一等卒 岡川 八郎衛 西8
K009 陸軍歩兵●等卒 楓井 嘉吉 西9
K010 陸軍歩兵二等卒 佐々木 三次 西10
K011 故陸軍歩兵二等卒 伊藤 弥七 西11
K012 二等兵卒 市田 與三郎 西12
K013 故陸軍歩兵二等卒 樋口 一蔵 西13
K014 陸軍歩兵一等卒 平田 清七 西14
K015 故陸軍歩兵一等卒 森田 善太郎 西15
K016 陸軍歩兵二等卒 南部 岩雄 西16
K017 陸軍歩兵一等卒 松田 ●良次郎 西17
●は漢字ロムにない。「大」の下に「良」と書く。
一見してわかることは、「(故)陸軍歩兵」が階級のまえにつく墓碑が多いことです。例外は、K012で「二等兵卒」とあるのみ。これは、兵卒が葬られた時期に関係すると思います。大津市が残した資料には、墓碑から死亡年月を抜書きしたものがものがあります。それとの対照表をつくりました。
墓碑の死亡年月と階級
記載なしは「陸軍歩兵」、「故」は「故陸軍歩兵」
K001 大正10年11月 故
K002 大正11年 1月 故
K003 大正11年 2月 故
K004 大正13年 4月 故
K005 大正 5年 2月
K006 大正11年12月 故
K007 大正 7年12月 故
K008 大正 7年12月 故
K009 明治40年 6月
K010 大正 2年12月
K011 大正10年 4月 故
K012 明治11年10月 「陸軍歩兵」なし
K013 大正10年 5月 故
K014 大正 2年 8月
K015 大正 2年11月 故
K016 大正 4年 4月
K017 明治40年 6月
指摘するまでもなく、傾向ははっきりしています。
2nd OTSU JAZZ FESTIVAL 2010 ― 2010/10/19
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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