お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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言語の発見と消滅2010/10/21

CNN.co.jpを見ていたら、言語についてのニュースがあった。タイトルは、『インド奥地で未知の言語見つかる 使用者わずか800人』
 記事を読むと「アカ語」の採取の途上で発見されたらしい。未知の言語は「ロコ語」。両者の違いを際だたせるとき、つぎのような表現が使われた。
チームを率いる米スワースモア大学のデービッド・ハリソン准教授は「アカ語とコロ語の響きには、英語と日本語ほどの大きな違いがある」と指摘する。
 こういう場面での日本語の登場に驚いたのだが、アメリカの一般人にはわかりやすい比喩なのだろう。それよりも、ニュースの結びを読んだとき、さらに深く考えさせられるものがあった。
研究者らによると、世界では2週間ごとに1つの言語が消滅している。現在使われている6910の言語のうち、2100年には半数以上が消滅する見通しとされる。
生物学的多様性もそうだが、言語の多様性を守ることも、人類的な課題ではないか。

兵卒の墓碑と階級名 Ⅲ ~K035からK051まで~2010/10/21

手前二列目の右に「永井七五郎」の墓碑(K051)
 K136から順番に一つ一つの碑文を読み取ろうと思いましたが、予定が狂いました。それは、階級が読み取れないか、それとも読み取れるがその結果に疑問が湧いたからです。例の「上等卒」という表記です。目の間違いなのか、実際にそう刻んであるのか。結局、他の墓碑を見直しながらやるのがいいのだと気がつきました。  そこで、一つ一つの精査はあとにして、まず全体を確認しようと正面の碑文から始めました。これで前から3列目。K035からK051までの階級名と氏名をチェックしています。

 当初の埋葬場所との関係のオーダーが変わっています。
 一列目=K001からK017までは、左から右へ西001から西0017まで配列。二列目=K018からK034までは、右から左へ西0018から西034まで配列。
 三列目=K035からK045までは、左から右へ西035から西045の順番で配列されています。
 順番が違ってくるのは、K046以下です。下の表を見ていただければわかりますが、K046には、西059が置かれています。それ以下も変則
 なぜなのか?
 以前にも答えを出しました。それは、新しい墓地の美観を重視して、墓碑の基礎の石積みが一段なのか、二段なのかで分けて、まずは一段を最前列からそろえたということだろう---とです。
 つまり、現状に近いものとして、移葬したのではないのです。

 また大津市に残っている名簿では、階級についても、氏名についても、誤記があります。たとえば、永井七五郎は、名簿では「一等兵」ですが、墓碑では「生兵」。小田辰五郎は、「二等兵」でなく、「二等卒」などです。訂正箇所は、アンダーラインにしました。
 ○は文字が刻まれているが読めないという意味です。大津市に保管されている移葬に関する文書は、1970年代のもの。この時点では、もう読み取り不可の状態だったということです。
 (二行)というのは、下の写真の「永井七五郎」の墓碑のように、正面の碑文が二行に渡っているということです。
二行にわたる碑文(「生兵 永井七五郎」)@旧大津陸軍墓地
前から3列目 K035~K051

K035 ○○○○○○ 伊○ 清太郎  西35
K036 陸軍歩兵上等兵  松野 無松   西36
K037 陸軍歩兵二等卒  川瀬 市治郎 西37
K038 陸軍歩兵二等卒  杉本 傳吉  西38
K039 陸軍歩兵二等卒  林 安之助  西39
K040 陸軍歩兵二等卒  福川 寅次郎 西40
K041 陸軍歩兵一等卒  中村 卯之助 西41
K042 陸軍歩兵二等卒  前川 俊造  西42
K043 陸軍歩兵二等卒  早瀬 栄蔵  西43
K044 陸軍歩兵二等卒  宮坂 安次郎 西44
K045 陸軍歩兵一等卒  富永 猶吉 西45
K046 ○○○○卒    小西 戈治郎 西59
K047 生兵        田村 勝治郎 西側93
K048 二等       小田 辰五郎(二行) 西127
K049 二等卒       西堀 與惣治郎(二行) 西132
K050 二等卒       萩田 庄吉(二行) 西133
K051 生兵        永井 七五郎(二行) 西135
以下、墓碑に刻まれた死亡年月。
K035 明治38年 4月 西35
K036 明治38年11月 西36
K037 明治38年 6月 西37
K038 明治28年 8月 西38
K039 明治29年 9月 西39
K040 明治29年12月 西40
K041 明治29年12月 西41
K042 明治30年 2月 西42
K043 明治30年 2月 西43
K044 明治30年 5月 西44
K045 明治30年 5月 西45

K046 明治21年 3月 西59

K047 明治13年11月 西93

K048 明治11年 8月 西127  (二行)
K049 明治11年 9月 西132  (二行)
K050 明治11年 5月 西133  (二行)
K051 不明         西135  (二行)

 このような対照表をつくりながら、墓碑の元の順番は尊重すべきだと思いました。
 創建から1970年代半ばまで保存されていた当時の西側の墓地は、縦に19段ならんでいました。横には、8基ほどが並ぶ広さです。記録をたどれば、旧いものから順番に上から埋葬されていったことがわかります。
 K035からK51の17基は、現在では、Kブロックの前から3列目にならべられています。
 しかし、元の位置はずいぶんちがいます。
 K035からK045までの墓碑は、西側の墓地の前から5列目と6列目に置かれていました。
 あとの墓碑、たとえば二行にわたる墓碑、K048からK051は、もっとも旧い時代のものです。それらは、西の墓地の最上部に位置していました。具体的には、K050とK051は、もっとも上の列、前から数えて19列目に置かれていました。K048とK049は、その下の列、18列目に置かれていました。

 元の墓地が保存されていれば、上から年代順に並んでいますので、墓碑の形や表記の違いに注目しながら、見学できたと思われます。

兵卒の墓碑と階級名 Ⅳ ~K052からK068まで~2010/10/21

 旧大津陸軍墓地のKブロックは、139の墓碑があります。前から後ろへ9列に並んでいます。これまでに、前から3列、51柱分の墓碑の階級名を記録してきました。
 これから4列目、K052~K068までの墓碑名を見て行きます。

 大津市に残る名簿では、記載が抜けている箇所、もしくは訂正が必要な箇所には、下線を引きました。
K052 歩兵二等銃卒 田本 太蔵 西側63
K053 故歩兵一等卒  宮崎 駒吉 西側62
K054 歩兵○等卒?  松本 光治郎 西側61
K055 ○○○○○ 福田 金治郎 西側60
K056 歩兵二等卒?  前田 留次郎 西側58
K057 生兵      大八木 菊之助 西側57
K058 歩兵一等銃卒 高田 次郎 西側56
K059 生兵      石田 重吉 西側55
K060 歩兵一等銃卒 久野 豊杢 西側54
K061 歩兵二等卒 田村 政治郎 西側53
K062 歩兵二等卒 岡田 友吉 西側52
K063 歩兵一等卒 望田 源之助 西側51
K064 歩兵一等卒 山川 仙太郎 西側50
K065 歩兵二等卒  小林 ○之助 西側49
K066 歩兵二等卒  竹嶋 鶴松 西側48
K067 二等卒  泉並 ○(廉)?蔵 西側47
K068 歩兵二等卒  寺島 外吉 西側46
 「銃卒」という言葉ですが、幕末にでてくるのは知っています。しかし、s下の墓碑(K058)のように、明治の軍制のなかでも、存在したのですね。
「歩兵一等銃卒 高田里次郎」の墓碑@旧大津陸軍墓地
墓碑に刻まれた死亡年月と埋葬位置の関係は以下のとおりです。
K052 明治19年 6月 西63
K053 明治19年 5月 西62
K054 明治21年12月 西61
K055 明治21年 6月 西60
K056 明治20年11月 西58
K057 明治20年 8月 西57
K058 明治20年 7月 西56
K059 明治20年 6月 西55
K060 明治20年 3月 西54
K061 明治25年??月 西53
K062 明治25年 5月 西52
K063 明治25年12月 西51
K064 明治24年 7月 西50
K065 明治24年 6月 西49
K066 明治24年 4月 西48
K067 明治23年11月 西47
K068 明治23年 8月 西46

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)