お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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Qooの4ヶ月目の誕生日2010/10/23

4ヶ月目の誕生日を迎えたQooです
Qooは6月23日生まれ。
今日で4ヶ月目の誕生日です。

わが家にきてから、
まだ2ヶ月も経ってはいませんが、
体重が2.5㎏から5.1㎏に倍増。
元気に育っています。

誤算は、色ですね。
「すぐに、アカになりますよ」という話でしたが、
アカ(茶)どころか、どんどん黒毛が増えています。

血統書を見ると、
黒ごまシバのご先祖がいる様子です。

兵卒の墓碑と階級名 Ⅷ ~K117からK130まで~2010/10/23

Kブロック後ろから2列目。手前はK130。高さが不揃いです。
Kブロックも残り2列。23柱です。
 旧大津陸軍墓地が竣工したのは、明治10(1877)年10月のことです。Kブロックの前から7列目=後ろから2列目の14柱に刻まれた死亡年月は、明治11年9月から同12年9月まで。つまり、竣工直後の2年間に病死した若者の墓碑が並んでいます。碑文を読むと下の写真のように「平民」の文字が読みとれます。
右の一行目に「平民」の文字が見えます
  これらは、草創期の明治陸軍のあり方について、考える手がかりとなっています。

 階級名は、以下のように刻まれています。
前から8列目 K117~K130
K117 二等卒  山内 新太郎 西126
K118 二等卒  中尾 茂八 西125
K119 生兵    竹詰 音之助 西124
K120 一等卒  辻 伊助 西123
K121 一等卒  後藤 音五郎 西122
K122 卒  宍藤 助二 *実藤?西121
K123 二兵卒  福田 音次郎 西120
K124 一等兵卒  山口 庄次郎 西119
K125 一等卒  望月 直吉 西118
K126 一等兵卒  中村 小太郎 西117
K127 二等兵卒  加藤 源七 西116
K128 歩兵  四方 弁吉 西115
K129 二等兵卒  羽田 藤二郎 西114
K130 二等兵卒  北井 西113
 「歩兵」と刻まれたもの一柱あり、目を惹きます。
 その他、一(二)等卒と一(二)等兵卒という名称が混在します。呼称が、まだ確定していなかったということを意味しているのでしょうか。それとも、どちらでも違いがないということでしょうか。
K117 明治11年10月 西126
K118 明治11年 9月 西125
K119 明治11年 9月 西124
K120 明治11年 9月 西123
K121 明治11年 9月 西122
K122 明治12年 8月 西121
K123 明治12年 8月 西120
K124 明治12年 8月 西119
K125 明治12年 8月 西118
K126 明治12年 7月 西117
K127 明治12年 1月 西116
K128 明治12年 4月 西115
K129 明治12年 9月 西114
K130 明治12年 9月 西113

兵卒の墓碑と階級名 Ⅸ ~K131からK139まで~2010/10/23

Kブロックを背後から撮影。左手はLブロック。
 旧大津陸軍墓地のKブロックの墓碑銘の記録をしていますが、139柱のうち、最後の一列を構成している9柱を見ていきます。
 上の写真では、手前の横に並ぶ列になります。その一番右がK131。
 ただし、K131からK135は、第九聯隊の衛戍地である大津で亡くなった若者の墓碑ではなく、明治5年に彦根の十八番大隊に所属して亡くなった若者の墓碑です。墓碑の台石も大きいし、墓碑も背は低いですが、かまぼこ型で重厚です。
K131からK135 十八番大隊の墓碑
 それらの5柱は、すでに碑文を読み取り、ブログで公開しています。カテゴリー「第十八番大隊」で検索してご覧下さい。
 ちなみに、兵卒の墓地は、1970年代まで保存されていた旧来の姿によれば、通路を挟んで、坂道を下にむけて東西に細長く連なっていました。Kブロックはほとんどが西の墓地から移葬されましたが、5柱の十八番大隊の兵卒の墓碑は、東にあり、そこから移葬されました。ですから、東の番号が振ってあります。死亡年月も、旧大津陸軍墓地が竣功する明治10年よりも、5年も前になっています。
 ここでは、K136から139の4柱について正面の碑文を見て行きます。
最後列 K131~K139
K131 (階級名なし)  清水 男外吉 東9
K132 (階級名なし)  長谷 吉太郎 東10
K133 (階級名なし)  新畑 周二 東11
K134 (階級名なし)  辻 安次 東12
K135 (階級名なし)  岡田 ○良 東13

K136 二等喇叭卒  鵜飼 万治郎 西128
K137 上等卒  伊藤 惣七 西129
K138 生兵  生田 亀吉 西130
K139 二等卒  栢垣 徳松 西131 

K131 明治 5年 4月 東9
K132 明治 5年 6月 東10
K133 明治 5年 7月 東11
K134 明治 5年 7月 東12
K135 明治 5年 8月 東13

K136 明治11年 8月 西128
K137 明治11年 6月 西129
K138 明治11年 8月 西130
K139 明治11年 9月 西131

「兵卒の墓碑と階級名」Ⅰ~Ⅸの中間的なまとめ ① 記録文書の誤記について~2010/10/23

明治19年か、29年か?K072三上松之助の墓碑。台石は二段。
 旧大津陸軍墓地のKブロックの139柱の墓碑名と階級名を、大津市保管の移葬時の名簿と照らし合わせながら、チェックしてきました。墓碑は正面、右側面、左側面、背面の4面ありますが、当面は正面のみのチェックです。
 大津市保管の書類は、①オリジナルの墓地の形態と②そこの墓碑の位置、③氏名、④階級、⑤死亡年月を記録しています。たとえば、兵卒の墓碑の場合は、東側と西側にわけて、墓碑に番号をふっています。一覧表は二枚(東と西)、そして、地図上に墓碑の記号を並べて、その下に番号をつけて、どの墓碑がどの位置にあったのかが、わかるようになっている書類が二枚(東と西)あります。
 氏名階級の誤記は、実際の墓碑と照らし合わせれば、わかります。思った以上に間違いがありましたし、「二等卒」と記載されてても、実際は「陸軍歩兵二等卒」であったり、「歩兵二等卒」であったりします。その違いが重要なことは、K072の例でわかると思いますが、大津の名簿では配慮されていませんでした。
 しかし、兵卒の墓碑のもとあったはずの位置の情報は、名簿を信頼する以外に、確認する方法がないのです。オリジナルの兵卒の墓地は破壊されて存在しませんから。当時の墓地全体がわかる写真が残っていればいいのですが。
 疑いだせばきりがないのですが、破壊をまぬがれて、現在も原型をとどめているはずの墓地でも、名簿や位置の記録と実際はちがうのです。たとえば、ブロックFです(それは、またの機会にします)。
 死亡年月についても、似たところがあります。実際の墓碑は、正面の名前すら読み取るのが不可能となっている墓碑もあります。死亡年月日が刻まれているはずの場所は、さらに見にくい状態です。ですから、むしろ、それに依拠するしかない唯一の記録となっている場合もあります。
 ただ、死亡年月についても、碑文の解読間違いや名簿に清書するときの書き間違い(大津市保管の名簿は手書きです)の可能性は捨てきれません。
 たとえば、K072(大津市の記録では西67)。
 この墓碑の兵卒は、文書記録では、明治29年に死亡したことになっています。これは間違いだと思います。
 第一に、埋葬位置と一致しません。左右や周囲は、明治19年に死亡した兵卒の墓碑が並んでいるのに、これだけが、明治29年と10年間のずれがあります。
 第二に、階級名の表記の仕方と合いません。明治10年代末の階級名は「歩兵○○卒」などの表記方法。明治20年代末は(Kブロックで見る限り)「陸軍歩兵○○卒」というように「陸軍」がつけられています。では、K072はどうか。「歩兵○○卒」と刻まれていて、「陸軍」はついていません。
 第三に台石の段数。明治22年まではほとんど例外なく、二段。K072は二段。明治29年の他の墓碑はすべて一段です。
 位置も、階級表記も、台石も明治19年ということを示しているわけです。これは、誤記だと思います。実際の墓碑で確認すれば済むことですが、残念ながら、読み取れないのです。

Kブロックの次は、Lブロックを調べます2010/10/23

KブロックとLブロックの通し番号
 墓碑は風雨で磨滅していきます。日本陸軍が解体された1945年ならば、まだ読めたはずの碑文が、いまでは読めなくなっています。1970年代の名簿を見ると、この当時でも読めない碑文もあれば、まだ読めていた碑文もあります。読めていたはずの碑文のいくつかは、今ではもう読めません。
 私に旧日本陸軍が残した墓地の碑文を記録する責任があるとは思いません。でも、放置すると、やがでただの石くれと砂になるのだと思うと情けなくなって、やろうと決めました。
 そう決めてからすでに3年が経ちました。調査を中断した期間がありましたから、まる3年間ではありません。その間に、他に調べ始めた人がいるという話を聞きません。ですから、まだ続けることになりました。
 旧大津陸軍墓地をブロックにわけて、名前をつけて、調べ始めてから、いままでに、将校の墓地(Aブロック)、その縁者の墓地(Mブロック)、日清戦争期の下士官の墓地(Bブロック)、同時期の兵卒の墓地(Eブロック)、最古の墓地(Fブロック)、ロシア人墓碑、など、各墓地の墓碑を一柱づつ調べ、成り立ちに迫る努力をしてきました。
 残るは、下士官の二つの墓地CブロックとDブロック、および最多の墓碑をもつ兵卒の墓地=明治10年に竣工されてから大正にいたるまでに病死した兵卒の墓地、でした。下士官は数が限られているのであとに回すことにしました。
 兵卒の墓地は、いまは存在しません。バイパス工事により破壊され、谷を埋めて移葬されました。その数は238柱。移葬先は、KブロックとLブロックと私が名づけた場所です。

 上の図面の左がMブロック、右の縦長がLブロックです。

 Kブロックは、139柱。墓碑の正面に刻まれている階級と氏名だけを調べ終わりました。次は、Lブロック。この両者の違いは、元の墓地のm真ん中の通路をはさんで西にあったのか、東にあったのかの違いだけで、別の墓地にあったのではありません。埋葬も上から下に、東西をまたいで行われました。一体に扱わないと意味がないのです。
 ですから、つぎはLブロックを調べます。
 Lブロックは、全部で98柱。
 それぞれの墓碑には、番号がつけられています。大津市が保管している図面の番号を採用しました。照応関係を重視しただけで、意味があるわけではありません。

 下の写真は実際の墓地。
 図面とは左右が逆です。左にLブロック。右手にMブロックです。その他、Mブロックの向こう隣りにEブロック、その前にFブロックが見えています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)