お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「陸軍歩兵二等卒竹村治三郎墓」(東103=L236)を見る ― 2010/10/25
墓碑に刻まれている死亡年月を見れば、「下段東側」では、上手から下手へと、墓碑が建てられていったことがわかります。常識的な順番です。 先の記事の図では、図の下が上手、図の上が下手。混乱しそうですね。
図の上の方にぽつんと独立しているのは、日露戦争の兵卒の集団碑。そちらではなく、図の下に、一基だけぽつんと上手に建てられています。
103番です。
「陸軍歩兵二等卒竹村治三郎墓」。現在置かれている場所は、Lブロックの236。
資料では、明治42年7月。碑文では「明治四十二年七月二十四日死」とあります。
「下段東側」の最上部は、明治10年代の墓碑が並んでいる場所なので、なんらかの事情(順番で埋葬すべき場所が確保できなかったなど)でここに置かれたものでしょう。
図の上の方にぽつんと独立しているのは、日露戦争の兵卒の集団碑。そちらではなく、図の下に、一基だけぽつんと上手に建てられています。
103番です。
「陸軍歩兵二等卒竹村治三郎墓」。現在置かれている場所は、Lブロックの236。
資料では、明治42年7月。碑文では「明治四十二年七月二十四日死」とあります。
「下段東側」の最上部は、明治10年代の墓碑が並んでいる場所なので、なんらかの事情(順番で埋葬すべき場所が確保できなかったなど)でここに置かれたものでしょう。
明治10年代初期の兵卒の墓碑文 ~東98(L232)「二等兵卒川崎力之助墓」~ ― 2010/10/25
上は、東98の墓碑の左側面。兵卒の履歴が刻まれています。
そういえば、Fブロックでも、このように大きな文字で深く刻まれた碑文がありました。私はその内容に強い関心をもち、37柱のすべてを解読しました。 Fブロックの37柱は明治8年から11年のかけてのものです。Lブロックにも近い年代の墓碑がありますから、碑文のあり方が共通しているのですね。
ところで、下段墓地が竣工したのは、明治10年10月のこと。西南戦争の後始末に大津市の陸軍歩兵第九聯隊も忙殺されていたときのことです。同じ聯隊の兵卒でも、現地、たとえば田原坂のたたかいで戦死したものは、現地で埋葬。無事大阪まで帰還しても、聯隊営所に着くまでに、流行しはじめていたコレラでつぎつぎと倒れ、病死者がでました。大津衛戍病院で病死した出征兵卒も1名、記録に残っています。
西南戦争の戦没者のために巨大な「紀念碑」が建立されましたが、それは陸軍墓地のなかではなく、だれもが市から見上げることができる場所、見晴らしのよい三井寺の境内に建てられました。現在は、目に触れない山中に移されました(下の写真)。
陸軍墓地の下段に、病死した兵卒の埋葬がはじまるのは、明治11年以降のことです。
東側の墓碑の図を見ると、死亡年が明治11年の墓碑が4柱あることがわかります。それらは、すべて山手の一番上の列(5柱)に並んでいます。東98、東99、東100および東101。同じ横列にある東102だけが、明治12年です。
明治十一年四月廿九日應徴入営於大阪鎮台歩兵第九聯隊第三大隊第四中隊同年十月十一日病没於大津営所病室干時年廿年九月上記のように十分読み取ることができます。入営したのが4月、病死したのが10月。入営後、わずか6ヶ月で病死した20歳の若者の墓碑であることがわかります。
そういえば、Fブロックでも、このように大きな文字で深く刻まれた碑文がありました。私はその内容に強い関心をもち、37柱のすべてを解読しました。 Fブロックの37柱は明治8年から11年のかけてのものです。Lブロックにも近い年代の墓碑がありますから、碑文のあり方が共通しているのですね。
ところで、下段墓地が竣工したのは、明治10年10月のこと。西南戦争の後始末に大津市の陸軍歩兵第九聯隊も忙殺されていたときのことです。同じ聯隊の兵卒でも、現地、たとえば田原坂のたたかいで戦死したものは、現地で埋葬。無事大阪まで帰還しても、聯隊営所に着くまでに、流行しはじめていたコレラでつぎつぎと倒れ、病死者がでました。大津衛戍病院で病死した出征兵卒も1名、記録に残っています。
西南戦争の戦没者のために巨大な「紀念碑」が建立されましたが、それは陸軍墓地のなかではなく、だれもが市から見上げることができる場所、見晴らしのよい三井寺の境内に建てられました。現在は、目に触れない山中に移されました(下の写真)。
陸軍墓地の下段に、病死した兵卒の埋葬がはじまるのは、明治11年以降のことです。
東側の墓碑の図を見ると、死亡年が明治11年の墓碑が4柱あることがわかります。それらは、すべて山手の一番上の列(5柱)に並んでいます。東98、東99、東100および東101。同じ横列にある東102だけが、明治12年です。
東102 明治12年 1月
上等卒 堀田 源七
Lブロックの235
東101 明治11年11月
歩兵二等卒 澤崎 戈次郎
Lブロックの218
東100 明治11年10月
二等卒 堀川 鍋(?)次郎
Lブロックの234
東 99 明治11年10月
上等卒 宮崎 伊三郎
Lブロックの233
東 98 明治11年10月
上等兵卒 川崎 力之助
Lブロックの232
散歩のあと、足ふきをしてもらうQoo ― 2010/10/25
「生兵橋爪佐次郎之墓」(東96=L230)を見る ― 2010/10/25
上の写真は、明治12年8月に亡くなった橋爪佐次郎の墓碑の正面と右側面です。正面には階級と氏名。左右に履歴が刻まれています。右側面は途中で終わっていますが、残りは左側面にあります。
橋爪佐次郎は二十一歳の生涯を衛戍病院の病室で終えました。わずかな期間の兵役生活のために、「生兵」、つまり兵としての階級をえるまえに。故郷・三重県にいる父親の名前は、甚七。次男を徴兵され、わずか半年で亡骸をいだくことになりました。はるかな距離を知らせを聞いて駆けつけたことでしょう。再会の光景は痛ましいものがあったはず。母親の名前はわかりませんが、その嘆きはどこにも記録されていません。
この墓碑は、東側の墓地の上から二列目に並んでいた墓碑の一つです。下段東には、墓地の真ん中あたりに樹木のベルトがあった様子です。この木をよけるために、二列目は、4柱しか並んでいません。
三重縣平民橋爪甚七次男安政五年三月八日生於紀伊國牟婁郡上市木村明治十二年四月廿九日應徴入営於大坂鎮台歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊下の写真が、左側面です。
明治十二年十月十七日死於大津営所病室干時年廿一年六月
橋爪佐次郎は二十一歳の生涯を衛戍病院の病室で終えました。わずかな期間の兵役生活のために、「生兵」、つまり兵としての階級をえるまえに。故郷・三重県にいる父親の名前は、甚七。次男を徴兵され、わずか半年で亡骸をいだくことになりました。はるかな距離を知らせを聞いて駆けつけたことでしょう。再会の光景は痛ましいものがあったはず。母親の名前はわかりませんが、その嘆きはどこにも記録されていません。
この墓碑は、東側の墓地の上から二列目に並んでいた墓碑の一つです。下段東には、墓地の真ん中あたりに樹木のベルトがあった様子です。この木をよけるために、二列目は、4柱しか並んでいません。
東97 明治12年 8月
二等兵卒 脇谷 榮吉
Lブロック231
東96 明治12年 8月
生兵 橋爪 佐次郎
Lブロック230
東95 明治12年 8月
二等兵卒 今井 藤松
Lブロック229
東94 明治12年 8月
二等卒 増田 重吉
Lブロック164 二行
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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