お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
生兵・橋爪佐次郎(東96=L230)の出身地「紀伊国牟婁郡上市木村」は現在どこにあるのか? ― 2010/10/26
先に紹介した「生兵橋爪佐次郎之墓」に刻まれてる「三重縣・・・紀伊国牟婁郡上市木村」とは、現在のどこにあたるのか?を調べてみました。佐次郎が21歳で亡くなったのは、明治12(1879)年です。このことを念頭に置くことが大事になります。
「紀伊国牟婁郡」ですが、明治11(1878)年7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、紀伊国牟婁郡を、和歌山県に属する西牟婁郡・東牟婁郡と、三重県に属する北牟婁郡・南牟婁郡に分割したという経過があります。「上市木村」は、南牟婁郡に属しました。
Wikipediaで、明治22(1889)年の市町村制以降の合併の動きを知ることができます。上市木村は、明治22年4月1日に下市木村と合併して、南牟婁郡市木村となります。・・・これだけでも、墓碑が明治22年以前に建立されたことがわかりますね・・・戦前はずっとこのままです。
戦後は、昭和31年9月30日に尾呂志村と合併して、南牟婁郡市木尾呂志村になりました。そのわずか2年後の昭和33年9月1日には、阿田和村、神志山村と合併し、御浜町となり、現在に至っています。
Mブロックでも、Lブロックでも(つまり、下段西でも東でも)、「三重縣」と出身地が刻まれた墓碑がいくつかあります。第九聯隊の徴兵範囲がここまで及んでいることを示すとともに、旧大津陸軍墓地がそれらの範囲の庶民の嘆きの場であることをあらためて確認することが大事だと思います。
「紀伊国牟婁郡」ですが、明治11(1878)年7月22日 - 郡区町村編制法制定に伴い、紀伊国牟婁郡を、和歌山県に属する西牟婁郡・東牟婁郡と、三重県に属する北牟婁郡・南牟婁郡に分割したという経過があります。「上市木村」は、南牟婁郡に属しました。
Wikipediaで、明治22(1889)年の市町村制以降の合併の動きを知ることができます。上市木村は、明治22年4月1日に下市木村と合併して、南牟婁郡市木村となります。・・・これだけでも、墓碑が明治22年以前に建立されたことがわかりますね・・・戦前はずっとこのままです。
戦後は、昭和31年9月30日に尾呂志村と合併して、南牟婁郡市木尾呂志村になりました。そのわずか2年後の昭和33年9月1日には、阿田和村、神志山村と合併し、御浜町となり、現在に至っています。
Mブロックでも、Lブロックでも(つまり、下段西でも東でも)、「三重縣」と出身地が刻まれた墓碑がいくつかあります。第九聯隊の徴兵範囲がここまで及んでいることを示すとともに、旧大津陸軍墓地がそれらの範囲の庶民の嘆きの場であることをあらためて確認することが大事だと思います。
「下段東側」には「生兵(せいへい)」の墓碑が102柱中15柱(訂正) ― 2010/10/26
上の写真は、大阪市玉造にある旧真田山陸軍墓地の一部です。空襲をうけて、破壊された墓碑が無縁塚のように固められているところです。さまざまな階級に混じって「生兵」の墓碑もありました。
旧大津陸軍墓地の話に、戻ります。
下段東側の墓碑のなかに、思ったより「生兵(せいへい)」の墓碑が多いことに気がつきました。そこで、カウントすることにしました。102基の個人碑のうち15がそれでした。
下は下段東の一覧表。東のあとの番号は、下段東での位置をしめす通し番号。(L)は、現在の位置を示す通し番号です。
明治20年以降はありません。
梶川太郎市(?)を追加。
旧大津陸軍墓地の話に、戻ります。
下段東側の墓碑のなかに、思ったより「生兵(せいへい)」の墓碑が多いことに気がつきました。そこで、カウントすることにしました。102基の個人碑のうち15がそれでした。
下は下段東の一覧表。東のあとの番号は、下段東での位置をしめす通し番号。(L)は、現在の位置を示す通し番号です。
1.東96(L230) 橋爪 佐次郎
明治12年 8月
2.東93(L227) 川崎 松之助
明治12年10月
3.東90(L225) 原田 國兵
明治12年 9月
4.東89(L224) 西出 勇吉
明治12年 9月
5.東87(L222) 西口 丈吉
明治13年10月
6.東80(L204) 山下 音松
明治15年 2月
7.東81(L203) 永田 春吉
明治15年
8.東70(L214) 松本 岩吉
明治15年 9月
9.東78(L206) 西野 仁吉
明治14年12月
10.東72(L212) 小林 甚九郎
明治15年 9月
11.東66(L205) 小松 正
明治16年10月
12.東64(L199) 梶川太郎市(?)
明治16年 9月
13.東60(L195) 久野 彌三郎
明治18年12月
14.東57(L192) 中岡 捨吉
明治17年12月
15.東54(L189) 水川 丑松
明治19年10月
明治20年以降はありません。
梶川太郎市(?)を追加。
2月のチー(もっと撮っておけばよかった・・・) ― 2010/10/26
軍事基地の強化と経済振興の狭間で揺れるまち~滋賀県高島市『饗庭野演習場周辺対策に係る要望書』(2009)から~ ― 2010/10/26
沖縄では、米軍基地の被害と政府による経済振興の関係は、いわばアメとムチの問題として、複雑なからみあいをもっています。それらを乗り越えて、普天間基地をかえせという総意は、尊重されなければなりません。
基地と地域経済の問題は、なにも、沖縄だけの問題ではありません。明治8年の大阪鎮台大津営所の設置以来、軍都となった大津市では、京都府伏見への統廃合の際に、市長先頭に陸軍の撤収反対運動をしたときいています。
昨日、机の中を整理していて見つけた書類(コピー)があります。『饗庭野演習場周辺対策に係る要望書 滋賀県高島市』。2009年のものです。
前文を一読しただけで、「基地のまち」の屈折した行政担当者の立場が感じられます。
基地と地域経済の問題は、なにも、沖縄だけの問題ではありません。明治8年の大阪鎮台大津営所の設置以来、軍都となった大津市では、京都府伏見への統廃合の際に、市長先頭に陸軍の撤収反対運動をしたときいています。
昨日、机の中を整理していて見つけた書類(コピー)があります。『饗庭野演習場周辺対策に係る要望書 滋賀県高島市』。2009年のものです。
前文を一読しただけで、「基地のまち」の屈折した行政担当者の立場が感じられます。
・・・本市は、明治19年に饗庭野が旧陸軍演習場として試用に供されて以来120年余、本市の中央に位置することから、常に「基地のまち」として、現地部隊との共存共栄のもと、まちづくりを進めてきたところですが、時代の変遷と社会情勢の急激な変化の中で、住民のニーズは、安全安心対策をはじめ、多種多様化とともに高度化しております。騒音や環境対策など当然の要望のほかに目をひいたのは「2.今津駐屯地への新たな部隊の編成と隊員の増員について」です。
また、最近では、今津駐屯地の隊員数が部隊の削減、再編等により減少し、あらゆる方面にその影響を及ぼしているところです。
このような状況にあって、近年、饗庭野演習場の使用が従来にもまして拡充されたことに伴い、場内からの濁水の流出、ヘリコプターおよび実弾射撃による騒音、振動障害はもとより、住民の憩いの場として古くから利用されてきた饗庭野への立ち入り制限の強化や、市内各地域での徒歩訓練も頻繁に実施されており、住民の演習場に対する意識の変化とともに、演習場着弾地周辺地域におきましては、その被害意識がますます高まっている状況となっております。
このようなことから、防衛力の基礎となる防衛施設の安定的な使用の重要性に鑑み、周辺地域住民の理解と協力、国防に対する意識の醸成を強く推進することが、本市行政の責務であろうかとは存じますが、本市のみの対応には限界もありますことから、貴職(=防衛大臣、防衛事務次官、陸上幕僚監部陸上幕僚長、航空幕僚監部航空幕僚長、近畿中部防衛局長、陸上自衛隊中部方面総監、陸上自衛隊第3師団長)におかれましてもより一層のご高配を賜りますようお願いいたします。
平成16年に決定された、いわゆる「新防衛大綱」により、陸上自衛隊の組織改編や編成定数が縮減され、旧第2営舎に所在した第3特科連隊第5大隊も平成18年3月、41年間の歴史に幕を閉じ、現在は来演部隊の廠舎として利用されていますが、周辺地域は以前に比べ閑散とした状況となっております。現高島市の苦境と行政の考えがどのようなものかは、わかります。さらに、2010年度に、どういうものが要望されたのか、知りたいと思います。 平和運動が住民の中に根をもつためには、この複雑さをよく理解し、ともに揺れながら、経済振興もあわせてすすめる必要があると思います。
・・・昨年度、新たな常駐部隊として移動監視隊約50名の配置がなされ、また、本年度末には無人偵察機隊の編成もあり、大変心強く歓迎しているところですが、今津廠舎の有効活用という観点から、陸曹教育に手狭だと聞き及んでおります大津駐屯地からの教育部隊の移駐について検討いただき、更なる常駐部隊の配置ならびに隊員の復元増員について格段のご配慮を賜りますようお願い申し上げます。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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