お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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下段西側の生兵の墓碑は8柱2010/10/27

「生兵 大八木菊之助墓」(西57=K057)の正面
下段東側で「生兵(せいへい)」の墓碑の数を数えました。14柱でした。下段西側は、個人墓碑の数は西側より多いですが、生兵の墓碑は、8柱でした。
 まずはリスト。
1.西135(K051)  永田 七五郎
     不明

2.西130(K138)  生田 亀吉
     明治11年 8月

3.西124(K119)  竹詰 音之助
     明治11年 9月

4.西105(K109)  越知 清太郎
     明治13年 1月

5.西101(K105)  脇田 福蔵
     明治12年10月

6.西 93(K047)  三田村 勝治郎
     明治13年11月

7.西 70(K075)  山下 長松
     明治18年11月

8.西 57(K057)  大八木 菊之助
     明治20年 8月
ところで、「生兵」という言葉はいつまで旧陸軍で使われていくのでしょうか。明治20(1887)年までは確かなようですが。

半藤一利 『山県有朋』(ちくま文庫)2010/10/27

 私にとって山県有朋は、もっとも共感できない人物の一人です。同時に、兵卒の墓碑を調べるという作業からすれば、それらの若者の運命にもっとも大きな影響を与えた人物ともいえます。
 つまり、徴兵制(明治6年)の推進者として、農民や町民に軍事教練を与え、内戦や侵略戦争の担い手にしたという意味で。旧大津陸軍墓地の下段に葬られている若者たちに則していえば、入営し、兵役訓練中に亡くなるという運命を与えた人物ということになります。

 半藤一利氏の『山県有朋』は、庶民の立場からすれば、雲の上の出来事を、明るい政治的なゲームのような感覚で描いています。その明るさにあきれながら、結局、庶民の運命というのは、雲の上の動きを眺めてはじめて理解できる---そんな気にもさせてくれます。

「生兵」から「二等卒」への期間 ~「二等卒 堀田源七 之墓」(東102=L235)より~2010/10/27

「二等卒堀田源七之墓」正面@旧大津陸軍墓地Lブロック
 山県有朋の建議によって推進された徴兵制と六鎮台制。そのもとで、明治8年に新設された大坂鎮台第九聯隊の大津営所。その営所に付属する施設としての埋葬所が旧大津陸軍墓地の最初の姿でした。
 滋賀県をはじめ近隣諸県の農民や町民の子弟が徴兵され、大津営所に入営し、軍事訓練を受けました。そして、訓練の成果よろしく軍隊内の階級を「拝命」するのです。
 堀田源七の墓碑の左側面には、つぎのように刻まれています。
明治十年六月五日應徴入営於大津鎮台歩兵第九聯隊第二大隊同年八月十七日二等卒拝命同十二年一月十日病没於大津営所病室二十二年十一月
「二等卒堀田源七之墓」左側面
 入営して、わずか二ヶ月で二等卒???

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)