お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)について2010/10/28

階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)
 旧大津陸軍墓地の現在のLブロックの墓碑を、かつて存在した場所を念頭において、記録しています。1970年代につくられた名簿を再検討していると、階級名にあたる部分が空白になっている墓碑があります。読み取れないというものもありますが、階級名が刻まれているとは思われない墓碑があります。

 たとえば、この「中尾庄三」の墓碑ですが、「沢?勇?勤?」と読めます。でも、意味不明です。ヒントになるかと、左右の側面を見ても、刻まれているのは、「明治三十四年五月○日」という死亡年月日だけです。

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)2010/10/28

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)
 とりあえず、階級名が読み取れない墓碑を掲載してみることにします。読める方がいるかも知れませんから。

この墓碑は、氏名は確定されていましたが、名簿では「雅郎」であろうという意味の表記がされていました。写真で見ると、まちがいないと思います。
しかし、階級名は読めません。

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)2010/10/28

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)
1970年代前半に移葬された239の墓碑の名簿を、その作業中に作成されていました。さっきから、それを見ながら、写真と対照しているのです。
一人ひとりの名簿は、たとえば次のように書かれています。「2.歩兵二等卒 馬場 寅吉」。上の墓碑については、「17.     平野彌三八」と書かれています。階級名が空白。しかし、名前はしっかり記録されているのですが、今、とてもこのようには、読めません。

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)2010/10/28

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)
 この墓碑は、その位置と墓碑の名簿から、「中村勘四郎」のものと考えられます。ところが、階級名も不明ですし、(大津市役所に保管されている名簿ではしっかり書かれている)本人の名前も、実際の墓碑からは(私には)読み取れません。じっと観察すれば、階級名というよりは、戒名のような気がします。あえて読めば「釈強覚」。

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)2010/10/28

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)
東29の墓碑でははっきりしていなかった文字が、東30の墓碑では読み取ることができます。
 冒頭の一字は、やはり「釈」でしょうね。となると、戒名ではないかと思います。あとは不明ですが、階級名とは思えません。その下ですが、「中西」までは、しっかり読めます。

追加記事。
やつしろさんのコメントでの指摘どおり、戒名ではなく、「法名」に訂正します。上の記事はそのまま残しますが。おっしゃるように「釈勇進」と読めますね。その下の文字ですが、「俗名」と刻まれているようです。ですから全体は、「釈勇進 俗名 中西丹次」でしょうね。

そんなに無理にひっぱらなくても・・・Qooの方がです。2010/10/28

Qooは、人をひっぱりすぎで、ハアハア状態
 ともかく、人より先に歩きたい・・・そう思っているようです。疲れるのがわかっているのに、ドンドンとリードを引いていきます。そうはさせないように、ふんばっているのですが、Qooは「ハアハア」いいながら、自分を貫こうとします。
首が伸びてしまいますよ。
首が伸びた??

仔猫のときも、いまも目のあたりは同じです2010/10/28

2月のチーくん(生後二カ月ぐらい)
チーの2月の写真が面白くて、見ています。
このまなざしは今も同じですね。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)