お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日露戦争で戦病死した兵卒の墓碑~「陸軍歩兵一等卒林善蔵墓」(旧高島町鴨)~ ― 2010/10/30
以前にもご紹介しましたが、『高島郡誌』には日露戦争の戦没者の名簿があります。
旧高島町では、以下の16名(高島村4名、大溝村6名、水尾村6名)です。鴨の共同墓地にある旧い墓碑が、林善蔵の墓碑であると思っていましたが、確認できませんでした。今月、墓地の清掃が済んだ後に、訪れる機会があり、確認することができました。これで、旧高島町で、墓碑を見ることができた戦没者は、山田與三郎(大溝)、竹下伊三郎(大溝)、萬木音吉(大溝)につづいて林善蔵(鴨)で4名にとなりました。
旧高島町では、以下の16名(高島村4名、大溝村6名、水尾村6名)です。鴨の共同墓地にある旧い墓碑が、林善蔵の墓碑であると思っていましたが、確認できませんでした。今月、墓地の清掃が済んだ後に、訪れる機会があり、確認することができました。これで、旧高島町で、墓碑を見ることができた戦没者は、山田與三郎(大溝)、竹下伊三郎(大溝)、萬木音吉(大溝)につづいて林善蔵(鴨)で4名にとなりました。
旧高島町の日露戦争の戦病死者名簿
○大塚 徳松 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年10月15日 大坂予備病院
○八田 金蔵 高島村大字高島
明治37年8月22日 旅順
○西川 元治郎 高島村大字高島
明治38年3月7日 小貴興堡
○西歳 徳 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
○山田 與三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月2日 角面堡
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○竹下 伊三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月4日 来神堡
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○仁賀 富蔵 大溝町大字勝野
明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)
○萬木 音吉 大溝町大字勝野
明治38年3月8日 小貴興堡
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○和治 庄蔵 大溝町大字勝野
明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)
○仁賀 半兵衛 大溝町大字勝野
明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難
○鈴木 勘三郎 水尾村大字宮野
明治37年8月1日 滾子泡
○伊藤 岩吉 水尾村大字武曽横山
明治37年11月8日 廣島予備病院(病死)
○林 善蔵 水尾村大字鴨
明治38年3月31日 遼陽兵站病院(病死)
*鴨の共同墓地に角錐形の墓碑がある。
○横田 元蔵 水尾村大字武曽横山
明治37年5月26日 金州南山
○中村 嘉治郎 水尾村大字鴨
明治37年11月21日 青泥窪兵站病院
○横田 寅吉 水尾村大字武曽横山
明治37年10月19日 廣島予備病院(病死) 上の写真は、中野墓地。左から、萬木音吉、竹下伊三郎、山田與三郎の墓碑。
戦艦三笠の爆発沈没事故で死亡した仁賀半兵衛(旧大溝町勝野)の墓碑はどこに? ― 2010/10/30
戦没者の墓碑に刻まれている碑文から、思いもかけない歴史上の出来事が--その多くは軍事的なものですが--目の前に立ち現れる気がして、立ちすくむこともあります。
「第四十三号潜水艦事故」で亡くなった海軍大尉中比良義太郎の墓碑
この墓碑を見て、その経緯を調べていったときもそうでした(下線をクリックしていただれば、その記事を見ていただくことができます)。
日露戦争でバルチック艦隊が全滅した日本海海戦は有名です。その日本側の旗艦が戦艦「三笠」でした。『坂の上の雲』の主役の一人、海軍参謀の秋山真之が、東郷平八郎の指揮を補佐していた艦です。その「三笠」は不幸な事故で、戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、爆発事故で沈没します。戦場ではなく、佐世保港においてです。
この事故で亡くなったのは、339名。そのうちの一人が、『高島郡誌』の日露戦争戦没者名簿に掲載されている仁賀半兵衛(高島町勝野)でした。同じ勝野出身者の墓碑は、中野共同墓地に並んでいるのに、この方の墓碑は見あたりません。
仁賀半兵衛の墓碑は、どこにあるのでしょうか。
「第四十三号潜水艦事故」で亡くなった海軍大尉中比良義太郎の墓碑
この墓碑を見て、その経緯を調べていったときもそうでした(下線をクリックしていただれば、その記事を見ていただくことができます)。
日露戦争でバルチック艦隊が全滅した日本海海戦は有名です。その日本側の旗艦が戦艦「三笠」でした。『坂の上の雲』の主役の一人、海軍参謀の秋山真之が、東郷平八郎の指揮を補佐していた艦です。その「三笠」は不幸な事故で、戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、爆発事故で沈没します。戦場ではなく、佐世保港においてです。
この事故で亡くなったのは、339名。そのうちの一人が、『高島郡誌』の日露戦争戦没者名簿に掲載されている仁賀半兵衛(高島町勝野)でした。同じ勝野出身者の墓碑は、中野共同墓地に並んでいるのに、この方の墓碑は見あたりません。
仁賀半兵衛の墓碑は、どこにあるのでしょうか。
Qoo(ワンコ)とチー(ニャンコ)は同じぐらい?9月の頃 ― 2010/10/30
日露戦争戦没者の墓碑の存否@大溝町勝野~戦死者と戦病死者の扱いの違いという問題~ ― 2010/10/30
民間墓地に戦死者・戦傷死者・戦病死者の墓碑を建てることに公の許可が必要だったのかどうか。日露戦争では、国家が個人墓碑を建てることができないくらい膨大な戦没者を出しました。それ以後は、個人墓地は、民間墓地でしか見ることはできません。公が補助金を出したのかどうか、までは確認できていません。
それはそれで調べてみることにします。
ところで、旧高島郡で日露戦争の戦没者の墓碑を探し求めているときに、見つけた名簿。おなじ「大溝町勝野」の戦没者は6名でした。共同墓地が中野墓地一つだと考えると、3名の墓碑はありますが、残り3名の墓碑はありません。なぜなんでしょうか?
これが偶然ではないとすれば、それは、戦死なのか、戦病死(事故死)なのかという違いが、影響を及ぼしていると考えられるのですが、いかがでしょうか。
それはそれで調べてみることにします。
ところで、旧高島郡で日露戦争の戦没者の墓碑を探し求めているときに、見つけた名簿。おなじ「大溝町勝野」の戦没者は6名でした。共同墓地が中野墓地一つだと考えると、3名の墓碑はありますが、残り3名の墓碑はありません。なぜなんでしょうか?
これが偶然ではないとすれば、それは、戦死なのか、戦病死(事故死)なのかという違いが、影響を及ぼしていると考えられるのですが、いかがでしょうか。
中野墓地に墓碑がある3名これらの若者の墓碑は、すでに紹介しています。
○山田 與三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月2日 角面堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○竹下 伊三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月4日 来神堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○萬木 音吉 大溝町大字勝野
明治38年3月8日 小貴興堡=戦死
*中野墓地に角錐形の墓碑がある。
中野墓地に墓碑がない3名旧高島町中野墓地には、日清戦争の戦没者の巨大な墓碑が1基あります。しかし、その若者の死に様は、戦死ではなく、戦病死にあたります。日清戦争は区別がなく、日露戦争では区別が生まれたということなのでしょうか。 上の写真は中野墓地の入り口付近。大きな墓碑が日清戦争の墓碑(「陸軍歩兵一等卒中村林蔵碑」)、左に見える背の高い3柱が日露戦争の墓碑。
○仁賀 富蔵 大溝町大字勝野
明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)
○和治 庄蔵 大溝町大字勝野
明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)
○仁賀 半兵衛 大溝町大字勝野
明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難(事故死)
「看病人中山清吉之墓」@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/10/30
「看護兵卒」の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2010/10/30
旧大津陸軍墓地の下段東側の兵卒の墓地には、「看護兵卒」の墓碑が、(すでに紹介した「看護生兵」の墓碑を含めて)、4柱あります。
上の写真は、明治17(1884)年12月に亡くなった「二等看護卒安場繁次郎之墓」の正面です。こういう墓碑を見てはじめて、そういう人たちの存在に目を向けることになりました。
右側面の写真ですが、摩滅していて読み取ることが困難ですね。冒頭は「三重縣平民伊勢國阿・・・」。途中に「文久三年」という年号が見えます。
大正2年に亡くなった奥村季吉と藤井安太郎の墓碑には、履歴の類は一切なく、死亡年月日が刻まれているだけでした。
上の写真は、明治17(1884)年12月に亡くなった「二等看護卒安場繁次郎之墓」の正面です。こういう墓碑を見てはじめて、そういう人たちの存在に目を向けることになりました。
右側面の写真ですが、摩滅していて読み取ることが困難ですね。冒頭は「三重縣平民伊勢國阿・・・」。途中に「文久三年」という年号が見えます。
旧大津陸軍墓地下段東側の看護卒の墓碑4人ですが、2人づつ死亡年月が重なります。明治17年冬と大正2年の夏に、なにか特別のことがあったのでしょうか。
東58(L193) 二等看護卒 安場繁次郎
明治17年12月没
東55(L190) 看護卒生兵 小笹丈之進
明治17年11月没
東 5(L143) 陸軍二等看護卒 奥村季吉
大正 2年 8月没
東 4(L142) 陸軍二等看護卒 藤井安太郎
大正 2年 8月没
大正2年に亡くなった奥村季吉と藤井安太郎の墓碑には、履歴の類は一切なく、死亡年月日が刻まれているだけでした。
旧大津陸軍墓地に眠る兵卒の出身地はどこか(1) ~「近江国甲賀郡」出身の坂幸治郎の墓碑~ ― 2010/10/30
旧大津陸軍墓地に眠る兵卒は、下段だけで239名。死亡年月は、明治11(1878)年から大正13(1924)年までの47年間に及びます。他の墓地(Fブロック)兵卒(明治8年)を考慮すると、ちょうど50年間の歴史を刻んでいます。
死亡年月の記録は、大津市に保管されている名簿に書かれています。欠落しているのは、兵の履歴です。出身地、生年月日など後代にいくほど、簡略になっていきます。
ここを衛戍地とした旧日本陸軍第九聯隊を例として、徴兵制度などを学ぶためにも、また、この墓地の意味を理解するためにも、出身地がわかることが大事だと考えました。
断片的に紹介していますが、「三重縣」が多く出てきます。これは、どういうことなんでしょうか。その地が第九聯隊に配属される範囲に入っていたのは、わかりますが、とくに三重縣・・・遠いために、自宅で埋葬することが不可能で、大津にある陸軍墓地に埋葬(当時は土葬)することを選んだのでしょうか。
上の写真は、明治22年12月に亡くなった「坂幸治郎」(東47=L182)の墓碑の左側面です。出身地が大きく刻まれています。 「近江国甲賀郡朝宮村」(現在の滋賀県甲賀市)。「宮」という字に自信がもてませんが。
○補足:「朝宮」を「朝国」に訂正します。10月31日。
死亡年月の記録は、大津市に保管されている名簿に書かれています。欠落しているのは、兵の履歴です。出身地、生年月日など後代にいくほど、簡略になっていきます。
ここを衛戍地とした旧日本陸軍第九聯隊を例として、徴兵制度などを学ぶためにも、また、この墓地の意味を理解するためにも、出身地がわかることが大事だと考えました。
断片的に紹介していますが、「三重縣」が多く出てきます。これは、どういうことなんでしょうか。その地が第九聯隊に配属される範囲に入っていたのは、わかりますが、とくに三重縣・・・遠いために、自宅で埋葬することが不可能で、大津にある陸軍墓地に埋葬(当時は土葬)することを選んだのでしょうか。
上の写真は、明治22年12月に亡くなった「坂幸治郎」(東47=L182)の墓碑の左側面です。出身地が大きく刻まれています。 「近江国甲賀郡朝宮村」(現在の滋賀県甲賀市)。「宮」という字に自信がもてませんが。
○補足:「朝宮」を「朝国」に訂正します。10月31日。
旧大津陸軍墓地に眠る兵卒の出身地はどこか(2) ~「近江国神崎郡」出身の雁瀬其三吉の墓碑~ ― 2010/10/30
大津市は滋賀県の県庁所在地。滋賀県出身者の兵卒の墓碑は、どれだけあるものなのか。
「歩兵二等卒雁瀬其三吉墓」(東43=L161)の左側面には、「滋賀縣下近江国神崎郡池田村平民」と刻まれています。とりわけ、「平民」と刻まれているところに関心がわきます。叛乱を起こした「士族」ではないという意味でしょうか。要はプラスのイメージなのか、マイナスのイメージなのか、それともニュートラルか。死亡年月は、明治22年7月。
ちなみに神崎郡は、その大部分(葉枝見村は彦根市)が、現在の東近江市になっています。池田村は、どこなのか、私にはわかりません。 墓石の材質に関心が湧き始めました。同じ年代でも、摩滅が激しい墓碑とそうではない墓碑があります。この墓碑はまだくっきりしているようです。赤っぽい材質ですね。
「歩兵二等卒雁瀬其三吉墓」(東43=L161)の左側面には、「滋賀縣下近江国神崎郡池田村平民」と刻まれています。とりわけ、「平民」と刻まれているところに関心がわきます。叛乱を起こした「士族」ではないという意味でしょうか。要はプラスのイメージなのか、マイナスのイメージなのか、それともニュートラルか。死亡年月は、明治22年7月。
ちなみに神崎郡は、その大部分(葉枝見村は彦根市)が、現在の東近江市になっています。池田村は、どこなのか、私にはわかりません。 墓石の材質に関心が湧き始めました。同じ年代でも、摩滅が激しい墓碑とそうではない墓碑があります。この墓碑はまだくっきりしているようです。赤っぽい材質ですね。
ネコというよりネズミに近かった頃のチー ― 2010/10/30
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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