お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
戦艦三笠の爆発沈没事故で死亡した仁賀半兵衛(旧大溝町勝野)の墓碑はどこに? ― 2010/10/30
戦没者の墓碑に刻まれている碑文から、思いもかけない歴史上の出来事が--その多くは軍事的なものですが--目の前に立ち現れる気がして、立ちすくむこともあります。
「第四十三号潜水艦事故」で亡くなった海軍大尉中比良義太郎の墓碑
この墓碑を見て、その経緯を調べていったときもそうでした(下線をクリックしていただれば、その記事を見ていただくことができます)。
日露戦争でバルチック艦隊が全滅した日本海海戦は有名です。その日本側の旗艦が戦艦「三笠」でした。『坂の上の雲』の主役の一人、海軍参謀の秋山真之が、東郷平八郎の指揮を補佐していた艦です。その「三笠」は不幸な事故で、戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、爆発事故で沈没します。戦場ではなく、佐世保港においてです。
この事故で亡くなったのは、339名。そのうちの一人が、『高島郡誌』の日露戦争戦没者名簿に掲載されている仁賀半兵衛(高島町勝野)でした。同じ勝野出身者の墓碑は、中野共同墓地に並んでいるのに、この方の墓碑は見あたりません。
仁賀半兵衛の墓碑は、どこにあるのでしょうか。
「第四十三号潜水艦事故」で亡くなった海軍大尉中比良義太郎の墓碑
この墓碑を見て、その経緯を調べていったときもそうでした(下線をクリックしていただれば、その記事を見ていただくことができます)。
日露戦争でバルチック艦隊が全滅した日本海海戦は有名です。その日本側の旗艦が戦艦「三笠」でした。『坂の上の雲』の主役の一人、海軍参謀の秋山真之が、東郷平八郎の指揮を補佐していた艦です。その「三笠」は不幸な事故で、戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、爆発事故で沈没します。戦場ではなく、佐世保港においてです。
この事故で亡くなったのは、339名。そのうちの一人が、『高島郡誌』の日露戦争戦没者名簿に掲載されている仁賀半兵衛(高島町勝野)でした。同じ勝野出身者の墓碑は、中野共同墓地に並んでいるのに、この方の墓碑は見あたりません。
仁賀半兵衛の墓碑は、どこにあるのでしょうか。
コメント
_ やつしろ ― 2010年10月31日 06時43分40秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月31日 09時39分30秒
こういうご指摘はありがたいですし、その知識に驚くばかりです。
地図で捜してみます。
ところで、旧支所に行っても、知識のある方がおられない状態になっていました。
残念なことでした。
地図で捜してみます。
ところで、旧支所に行っても、知識のある方がおられない状態になっていました。
残念なことでした。
_ やつしろ ― 2010年10月31日 18時09分33秒
今朝行ってみましたが、ありませんでした。
というより、見つけられませんでした・・・・貴方なら、分かるかも・・・
というより、見つけられませんでした・・・・貴方なら、分かるかも・・・
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年10月31日 19時58分20秒
やつしろさんで見つけられないものが、私で見つけられるわけはありません(笑)。
時間が確保できないのがとても残念です。天候も、こちらの都合に応えてくれるとは限りませんし。
時間が確保できないのがとても残念です。天候も、こちらの都合に応えてくれるとは限りませんし。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
だから、その字の墓地にあると思います。