お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争(1894~96)戦没者の墓碑をもとめて@高島市 ― 2010/10/31
日清戦争は、陸軍の公式記録では「明治27・28年戦役」と呼ばれています。明治27(1894)年8月1日に宣戦布告され、明治28(1895)年4月17日に下関条約が締結されました。しかし、この条約で終わったわけではありません。その後、台湾征服戦争がはじまります。その終息は、明治29(1896)年。1894から96年までを一つのものとして見ておくべきだと思います。
『高島郡誌』には、日清戦争期に、高島郡(現高島市)出身者で戦没した若者の名簿が掲載されています。17名でした。そのほとんどが、下関条約の締結後に亡くなっています。遼東半島の守備につくなかで、また大津営所に凱旋した一週間後に台湾征服戦争に再びかり出されるなかで、です。
日清戦争の戦没者の墓碑は、最初は偶然の発見でした。いまは『高島郡誌』の名簿をもとにして、墓碑を捜しています。以下はその到達です。
所在は*以下に書いておきました。8名は旧大津陸軍墓地Eブロック(上の写真)に墓碑があります。陸軍墓地にもあるが、別に個人碑のある戦没者(中村林蔵)もいます。個人碑しかない方もいます。「不明」という墓碑も、私が知らないだけかも知れません。ご存じの方からの情報提供をお待ちします。
日清戦争は日本軍が初めて海を渡って他国を侵略した戦争でした。それだけに、それぞれの地域社会では、顔を知った若者が戦死する衝撃は大きかったと思います。巨大な個人碑が建立されたことでもわかります。
しかし、その犠牲ははじまったばかりであり、その後の対外戦争に比べれば、戦死者の数は多くありませんでした。日露戦争では、1桁違う犠牲者(100名)が、生まれました。この旧高島郡でも。
戦争の過程は、徹底した情報管理がされます。現実の戦争は「軍神」がたたかう英雄譚ではないと思います。
補足:以下の記事もご参照ください。
「日清戦争で戦病死した高島郡(市)の17名の若者」
『高島郡誌』には、日清戦争期に、高島郡(現高島市)出身者で戦没した若者の名簿が掲載されています。17名でした。そのほとんどが、下関条約の締結後に亡くなっています。遼東半島の守備につくなかで、また大津営所に凱旋した一週間後に台湾征服戦争に再びかり出されるなかで、です。
日清戦争の戦没者の墓碑は、最初は偶然の発見でした。いまは『高島郡誌』の名簿をもとにして、墓碑を捜しています。以下はその到達です。
所在は*以下に書いておきました。8名は旧大津陸軍墓地Eブロック(上の写真)に墓碑があります。陸軍墓地にもあるが、別に個人碑のある戦没者(中村林蔵)もいます。個人碑しかない方もいます。「不明」という墓碑も、私が知らないだけかも知れません。ご存じの方からの情報提供をお待ちします。
高島郡出身者で日清戦争期に亡くなった若者
(もう少し詳しく書きます。途中です)
①剣熊村 なし
②海津村 なし
③西庄村 1名
井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年10月6日。海城子にて死亡。
*旧大津陸軍墓地Eブロック(E173)に墓碑がある
④百瀬村 なし
⑤川上村 なし
⑥今津村 なし
⑦三谷村 なし
⑧饗庭村 2名
冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
「富田梅吉」と『高島郡誌』では表記(誤記?)
明治28(1895)年6月18日。清国柳家屯で死亡。
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年5月1日。清国王家屯にて死亡
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
⑨新儀村 1名
大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年12月8日 清国盛京省旅順口
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
⑩本庄村 なし
⑪青柳村 なし
⑫安曇村 3名
日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年4月29日に沙家屯にて死亡
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
*田中墓地に巨大な墓碑がある
福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年9月11日。金城にて死亡
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
⑬広瀬村 なし
⑭水尾村 1名
吉田 伊之助(宮野)
明治28(1895)年 8月27日
*不明
⑮大溝町 5名
三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
明治28年9月23日 牛馬頭患者宿泊所病院(台湾)
*永田の共同墓地に墓碑がある
中村 林造(勝野) 陸軍歩兵二等卒
ただし、墓碑には「中村林蔵」という表記
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治二十八年五月一日
*旧大津陸軍墓地に墓碑がある
*中野墓地に巨大な墓碑がある
仁賀 宗太郎(勝野)
*不明
島村 幸太郎(勝野)
明治28(1895)年11月17日
*不明
中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
明治28(1895)年4月7日 朝鮮平安道瀧川兵站病院で戦病死
*旧真田山陸軍墓地(大阪市玉造)に墓碑がある
⑯高島村 2名
奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治28(1895)年5月1日。沙家屯にて病死。
*旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑がある
林 甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒
陸軍歩兵第四師団第九聯隊所属
明治29(1896)年12月25日 台湾で戦死
*畑の共同墓地に墓碑がある
⑰朽木村 2名
森岩 五郎(栃生)
明治29(1896)年6月30日
*不明
金子 兼助(宮前坊)
明治31(1898)年 9月15日
*不明
日清戦争は日本軍が初めて海を渡って他国を侵略した戦争でした。それだけに、それぞれの地域社会では、顔を知った若者が戦死する衝撃は大きかったと思います。巨大な個人碑が建立されたことでもわかります。
しかし、その犠牲ははじまったばかりであり、その後の対外戦争に比べれば、戦死者の数は多くありませんでした。日露戦争では、1桁違う犠牲者(100名)が、生まれました。この旧高島郡でも。
戦争の過程は、徹底した情報管理がされます。現実の戦争は「軍神」がたたかう英雄譚ではないと思います。
補足:以下の記事もご参照ください。
「日清戦争で戦病死した高島郡(市)の17名の若者」
日清戦争戦没者「陸軍歩兵一等卒 日置卯市之墓」@旧大津陸軍墓地 ― 2010/10/31
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵一等卒 井花長太郎之墓」(マキノ出身)@旧大津陸軍墓地 ― 2010/10/31
日清戦争期戦病死者「陸軍歩兵二等卒 奥村久米蔵之墓」@旧大津陸軍墓地 ― 2010/10/31
奥村久米蔵は、旧高島郡(高島町拝戸)出身。陸軍歩兵第九聯隊に所属した二等卒。日清戦争がおこると、聯隊の一員として出征。宇品から遼東半島に向かいました。
明治28(1895)年5月1日。沙家屯で死亡。
Eブロック全体の名簿←これをクリック。
明治28(1895)年5月1日。沙家屯で死亡。
旧大津陸軍墓地 Eブロックに眠る高島郡兵卒7名
●陸軍歩兵二等卒 中村 林蔵
●陸軍歩兵二等卒 福井 乙吉
●陸軍歩兵上等兵 内田検次郎
●陸軍歩兵二等卒 奥村久米蔵
●陸軍歩兵一等卒 井花長太郎
●陸軍歩兵一等卒 日置 卯市
●陸軍輜重輸卒 富田 楳吉
Eブロック全体の名簿←これをクリック。
高島市(湖西地域)で眺める琵琶湖と紅葉と ― 2010/10/31
正面に「戒名」が刻まれた日露戦争戦没者の墓碑@甲賀市福生寺 ― 2010/10/31
甲賀市で仕事をしていたとき、福生寺に立ち寄ることがありました。そこには、りっぱな戦没者の墓地がありました。墓地そのものは新しいように思います。そのなかでも、目立って大きな墓碑が3基ならんでいました。その一番左が日露戦争の戦没者の墓碑でした。
その墓碑の形は、見慣れた日露戦争の墓碑の形をしていましたが、正面に刻まれた内容に驚きました。法名でした。
日露戦争戦没者の個人墓碑で、正面に「戒名」(*法名から訂正:以下同じ)が刻まれているのを見たのは、このときが初めてでした。そして、他に知りません。 横に並んだ戦没者の墓碑もすべて正面が「戒名」でした。
これにも驚きました。
民間墓地は、そんなに規制はきつくないと思います。では、陸軍墓地はどうだったのでしょうか。埋葬の仕方に、それぞれの陸軍墓地を管轄する師団や聯隊で扱いがちがったことはきいています。そのなかでも正面に法名や戒名を刻むことは許されたのでしょうか。また、旧真田山陸軍墓地では、法名が正面に刻まれた墓碑はあるのでしょうか。
お墓の常識がない私です。正面に階級(および勲何等とか)と氏名の刻まれた戦死者の墓碑を見慣れているだけに、旧大津陸軍墓地で戒名が正面に刻まれた墓碑を見つけたときは、ショックだったのです。
その墓碑の形は、見慣れた日露戦争の墓碑の形をしていましたが、正面に刻まれた内容に驚きました。法名でした。
日露戦争戦没者の個人墓碑で、正面に「戒名」(*法名から訂正:以下同じ)が刻まれているのを見たのは、このときが初めてでした。そして、他に知りません。 横に並んだ戦没者の墓碑もすべて正面が「戒名」でした。
これにも驚きました。
民間墓地は、そんなに規制はきつくないと思います。では、陸軍墓地はどうだったのでしょうか。埋葬の仕方に、それぞれの陸軍墓地を管轄する師団や聯隊で扱いがちがったことはきいています。そのなかでも正面に法名や戒名を刻むことは許されたのでしょうか。また、旧真田山陸軍墓地では、法名が正面に刻まれた墓碑はあるのでしょうか。
お墓の常識がない私です。正面に階級(および勲何等とか)と氏名の刻まれた戦死者の墓碑を見慣れているだけに、旧大津陸軍墓地で戒名が正面に刻まれた墓碑を見つけたときは、ショックだったのです。
「陸軍歩兵一等兵勲八等伊藤治一之墓」@旧志賀町 ― 2010/10/31
耳がおおきな3月のチー ― 2010/10/31
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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