お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

Qooと朝の散歩2010/11/13

Qoo
Qooとの散歩は、もっぱら、K君がやっている。
私との散歩は、めっきり減ってきた。
土曜日の朝は、ひさしぶりに、
カミさんと二人でQooの散歩。

散歩後に、湖岸のオープンカフェへ。

コーヒーを飲みながら、
話題は、もっぱらワンコ。
いつのまにか、ネコ派onlyのカミさんが、
ワンコ派とのdualになっている。

つぎつぎと窓の外には、
ワンコと散歩する人の姿が見える。
ネコと散歩する人はまれだろうから、
話題は自然にワンコになる。

にわかワンコ派なので、
何種類ものワンコに出会っても、
名前がいえない。

犬図鑑ってあったよね。

とカミさん。

さあ、と私。

なければ、買うつもりなんだろうか。

日清戦争戦没者「 陸軍工兵上等兵 仁賀(にが)宗太郎の碑@旧高島郡大溝町2010/11/13

日清戦争戦没者の仁賀(にが)宗太郎の墓碑@旧高島郡大溝町
 日清戦争戦没者の仁賀(にが)宗太郎の墓碑の所在が、この10月まで、私には確認できませんでした。そして、やつしろさんに11月5日に見つけていただきました。正しくは、その所在を思い出していただきました。そのときのコメントから、雰囲気が伝わってきます。
今朝、「そうだ、あれに違いない」と、ふと気が付いて、確認に行って来ました。
日清戦争の戦没者で不明とされていた陸軍工兵上等兵「仁賀宗太郎」さんの墓碑・・・・見つけました!!
子供の頃から、そこを通るたびに仰ぎ見ていたその場所に、やっぱり、ありました。
見当のない程立派な墓碑・…道路から15段の石段の上、立派な柵に囲まれた石碑・・・・忠魂碑級の立派さです。
石は、小松石・・・明治28年建立だのに、摩耗は殆どありません。
私も、その次の日に現場を通過して、視認したのですが、間近で見たのは、昨日のことでした。
 道路脇から、急な階段の上に、そびえています。あとで、やつしろさんが言うには、もう少し階段は短く、そして緩やかだったのではないかと。道路を整備したときに、変えられたのではないかということでした。
 それはともかく、この墓碑が共同墓地のはるか前に、別格のりっぱさで、単独で屹立していることにあらためて驚きました。繰り返し言うようですが、初めての本格的な対外戦争(1894~96年の広義の日清戦争)の戦没者ということの衝撃が伝わってきます。

 高島郡の日清戦争期での戦没者は、17名。それらの人たちのうちで、私が墓碑の存在を確認したのは、この時点で1名増えて13名となりました。
日清戦争期高島郡戦没者17名

墓碑の存在を確認した人
西庄村   井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
饗庭村   冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
饗庭村   内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
新儀村   大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
安曇村   日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
安曇村   山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
安曇村   福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
大溝町   三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
大溝町   中村 林蔵(勝野) 陸軍歩兵二等卒
大溝町   仁賀 宗太郎(勝野) 陸軍工兵上等兵
大溝町   中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
高島村   奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
高島村   林  甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒

墓碑の存在を確認できない人

水尾村    吉田 伊之助(宮野)
大溝町    島村 幸太郎(勝野)
朽木村    森岩 五郎(栃生)
朽木村    金子 兼助(宮前坊)

実は、もう一人の方の墓碑がこの日の調査で確認できました。つづいて報告します。

日清戦争戦没者「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」@旧高島郡水尾村宮野2010/11/13

日清戦争で戦没「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」@旧高島郡水尾村宮野
 休日を利用して、やつしろさんの案内で、忠魂碑と戦死者の墓碑を求めて、高島市を周りました。やつしろさんのかつての同僚であったことははじめて知りましたが、平和運動の中心となって活動中の旧知のHさんも同行。
 私にとって大切な発見ばかりでしたが、まずは、日清戦争の戦没者。
 「仁賀宗太郎」の墓碑は、すでに紹介しました。あまりに立派さに、その場をなかなか離れることができませんでした。続いて発見したのは、吉田伊之助の碑でした。道路脇に墓地があるのは知っていましたが、藪のために、奥は見えませんでした。あぜ道をつかって墓地に入ると、そこには、十柱を超える戦死者の墓碑が建っていました。
 時間を気にしながら写真を撮りましたが、日露戦争の戦死者の墓碑とともに、日清戦争の戦死者の墓碑があるのに、気がつきました。それが、吉田伊之助の碑でした。
下の写真の中央がそれです。

これで、旧高島郡の日清戦争戦没者17名中14名の墓碑の所在が判明しました。残るは、以下の3名のみです。
大溝町    島村 幸太郎(勝野)
朽木村    森岩 五郎(栃生)
朽木村    金子 兼助(宮前坊)

旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿(再録)2010/11/13

 旧高島郡(現高島市)の日清戦争での戦没者は17名。日露戦争では、いっきに100名が犠牲になっています。
 まず旧高島町から見ていきます。
 旧高島町では、16名(高島村4名、大溝村6名、水尾村6名)。
 10月までに、山田與三郎(大溝)、竹下伊三郎(大溝)、萬木音吉(大溝)、林善蔵(鴨)の4名の墓碑が確認できました。
 そして今月今日までに、高島市を回った結果、いくつかの墓碑を見つけましたが、それはあとで報告します。10月までの到達は以下のとおりです。
旧高島町の日露戦争の戦病死者名簿
  *印は10月までに墓碑を確認した場所

○大塚 徳松  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年10月15日 大坂予備病院
○八田 金蔵  高島村大字高島
  明治37年8月22日 旅順
○西川 元治郎  高島村大字高島
  明治38年3月7日 小貴興堡
○西歳 徳  高島村大字鹿ヶ瀬
  明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
山田 與三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月2日 角面堡
  *中野墓地に角錐形の墓碑がある。
竹下 伊三郎  大溝町大字勝野
  明治38年3月4日 来神堡
  *中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○仁賀 富蔵  大溝町大字勝野
  明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)
萬木 音吉  大溝町大字勝野
  明治38年3月8日 小貴興堡
  *中野墓地に角錐形の墓碑がある。
○和治 庄蔵  大溝町大字勝野
  明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)
○仁賀 半兵衛  大溝町大字勝野
  明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難
○鈴木 勘三郎  水尾村大字宮野
  明治37年8月1日 滾子泡
○伊藤 岩吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年11月8日 廣島予備病院(病死)
林 善蔵  水尾村大字鴨
  明治38年3月31日 遼陽兵站病院(病死)
  *鴨の共同墓地に角錐形の墓碑がある。
○横田 元蔵  水尾村大字武曽横山
  明治37年5月26日 金州南山
○中村 嘉治郎  水尾村大字鴨
  明治37年11月21日 青泥窪兵站病院
○横田 寅吉  水尾村大字武曽横山
  明治37年10月19日  廣島予備病院(病死)

鵜川四十八体石仏群付近の墓地(鵜川区・打下区)にて2010/11/13

鵜川四十八体石仏群
 墓地には、名称があるのでしょうけれど、私はこの墓地の名前を聞くのを忘れていました。看板には、管理者として、「鵜川区」と「打下区」の名前がありました。場所は、鵜川と勝野の間で、「鵜川四十八体石仏群」がある墓地です。
 旧い時代の地図があれば、町から野辺送りをしたと思われる道がわかるはずなのですが、現状からは推察できませんでした。本来、この墓地の入り口にあったと思われるのが、紹介済みの「陸軍工兵上等兵仁賀宗太郎碑」です。この碑は、現在は、4車線の道路脇にあって、とても歩道とは思われない所を通って来なければなりません。そこから、本来の墓地までの道のりは、草むらを通ることになります。昔の姿を知りたいと思いました。
 それに、日清にしても、日露にしても、中国大陸での戦争です。戦死や戦病死しても、遺体は帰ってきません。そういう戦死者の場合、「碑」という言葉に表されるように、「墓」とはいえず、野辺送りもやられなかったのではないかと思われます。実際は、どうだったのでしょうか。忠魂碑の前で、村葬をしたという記録も読んだことがあります。

 さて、本来の墓地ですが、入り口付近に、戦死者の墓碑が並んでいます。それは、ある意味見慣れた姿です。
上の墓碑を横目にしながら歩くと、右手に入り口があります。 そこにも、戦死者の墓碑が並んでいました。
 午後1時半頃から行動しましたので、先が気になり、全ての墓碑を見ることができませんでした。それでも、日露戦争期からの墓碑があり、興味深い墓地でした。
 つぎの記事から、その墓碑について書いてみます。

『高島郡誌』の日露戦争の戦病死者名簿にない三つの墓碑2010/11/13

日露戦争の戦病死者:左から石倉作之丞、伊原三蔵、仁賀六左衛門の墓碑
 鵜川区と打下区が管理する共同墓地で、先日見つけた日露戦争の墓碑は、3基。

 陸軍歩兵軍曹 石原作之丞(「釋敬立」)

 陸軍歩兵一等卒 伊原三蔵

 陸軍歩兵一等卒 仁賀六左衛門(戦病死)

これらの名前は、『高島郡誌』の日露戦争の戦没者の名簿にありません。少なくとも、出身地の部分に記載はありません。

 それは、なぜなんでしょうか。探し方が間違っているのでしょうか。

宮野の共同墓地 ~普通の死者と戦没者の墓碑~2010/11/13

宮野の共同墓地  ~普通の死者と戦没者の墓碑~
 庶民の世界では、昔から石造りの墓碑があったわけではないのです。それは、いわば近代の産物。とくに、第二次世界大戦以後のことだと思います。高価な墓碑を建てるのが当たり前のように、いわれだしたのは、高度成長以後なのでしょう。
 それ以前は、写真のような木簡が立ち並ぶ姿がどこでも見られたと思います。やつしろさんにお話しを伺うと、共同墓地は場所も広さも限られていますから、石造の個人墓碑を建て始めれば、たちまち、場所がなくなってしまいます。ですから、そういうものが・・・高価であることは別にしても・・・建てることはできなかったのです。その慣習を破ったのが、明治以降の戦争でした。日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、中国戦争、太平洋戦争。それらの戦死者は、戦死が特別のことであり、国家への奉仕の功をたたえるものとして、地域としての顕彰として、碑(墓碑)が建立することが許されたのだというのです。
 そういう特別の事情ですから、墓地の中というよりは、最も目立つ場所に置かれました。田中墓地でみかけた山崎松蔵の碑は、もともとは墓地ではなく、神社の横手でした。仁賀宗太郎の碑は、墓地へむかう途中の道にありました。
 宮野の墓地を見ると、一般の人たちの墓地の周辺に建立されていった様子が見てとれます。
 上の写真では、右手が正面。一番奥に、墓石が並んでいますが、すべて戦没者の墓碑です。写真では一番左が、日露戦争の戦死者の墓碑です。

日清戦争と日露戦争の個人碑 @宮野墓地2010/11/13

宮野墓地の日清戦争(左)と日露戦争(右)の個人墓碑
 宮野墓地は、旧い地名では、高島郡水尾村大字宮野にある墓地です。ここには、昭和の戦死者の墓碑が9基と日清戦争と日露戦争の墓碑がありました。
 日清戦争の戦没者の墓碑は、すでに紹介しましたが、吉田伊之助の墓碑です。写真では、左の大きい方です。
 日露戦争の墓碑もありました。その右です。

「陸軍歩兵一等卒勲八等功七級 鈴木勘三郎墓」

こう刻まれています。

 鵜川・打下墓地の日露戦争戦没者の個人墓碑の氏名は、『高島郡誌』には見つかりませんでしたが、鈴木勘三郎の名前は、あります。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)