お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿(再録) ― 2010/11/14
安曇川町は2005年まで存続した行政区でしたが、「平成の大合併」により、高島市になりました。日露戦争(1904~1905年)の頃は、4つの村でした。『高島郡誌』によれば、廣瀬村7名、安曇村10名、青柳村4名、本庄村8名。合計29名の戦病死者を数えます。
これまでに確認した個人墓碑は、田中墓地の4基だけだったと思います。
これまでに確認した個人墓碑は、田中墓地の4基だけだったと思います。
旧安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○入江 初次郎 廣瀬村大字上古賀
明治37年8月24日 旅順
○横井 喜久太郎 廣瀬村大字中野
明治37年8月29日 大坂予備病院(病死)
○黒丸 藤吉 廣瀬村大字南古賀
明治37年7月31日 野戦病院(病死)
○北村 勘七 廣瀬村大字下古賀
明治38年3月2日 北臺子
○西澤 石松 廣瀬村大字南古賀
明治39年 関東陸軍病院(病死)
○北村 梅吉 廣瀬村大字長尾
明治37年8月21日 旅順
○平井 嘉十郎 廣瀬村大字上古賀
明治38年8月20日 茨林子療養院(病死)
○横江 菊次郎 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 東鶏冠山
○薬師川 彌市 安曇村大字田中
明治37年8月24日 旅順
*田中墓地に墓碑(砲弾型)がある
○藤澤 傳治郎 安曇村大字田中
明治37年8月21日 旅順要塞
*田中墓地に墓碑(砲弾型)がある
○日置 鹿蔵 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 旅順要塞
○前川 幸太郎 安曇村大字田中
明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
*田中墓地に墓碑(砲弾型)がある
○福井 彌七 安曇村大字三尾里
明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
○河井 角右衛門 安曇村大字常盤木
明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
○多胡 徳治郎 安曇村大字常盤木
明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)
○熊谷 新次郎 安曇村大字田中
明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
*田中墓地に墓碑(砲弾型)がある
○中西 傳次郎 安曇村大字西萬木
明治38年3月23日 対馬付近船内
○吹畑 鐵蔵 青柳村大字小川
明治38年9月21日 戦地舎営病院(病死)
○木原 幾太郎 青柳村大字青柳
明治38年3月7日 小貴興堡
○岡田 亀吉 青柳村大字青柳
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
○小島 松之助 青柳村大字下小川
明治37年8月24日 盤龍山西砲台
○梅村 七松 本庄村大字四津川
明治37年10月31日 青泥窪兵站病院(病死)
○山本 鶴吉 本庄村大字四津川
明治37年8月21日 旅順
○拝藤 勇蔵 本庄村大字四津川
明治38年3月7日 小貴興堡
○梅村 伊三郎 本庄村大字四津川
明治37年6月15日 得利寺
○澤井 六之丞 本庄村大字横江濱
明治38年10月7日 古城堡(病死)
○橋本 伊三郎 本庄村大字南船木
明治38年3月7日 小貴興堡
○竹原 岩次郎 本庄村大字南船木
明治37年8月21日 旅順
○早藤 彌三郎 本庄村大字四津川
明治38年1月24日 遼陽兵站病院(病死)
南古賀の共同墓地@旧高島郡広瀬村 ― 2010/11/14
どういう訳か、写真の露出がおかしくなっています。それでも、墓地の入口の部分を撮ったものは、これしかなくて、とりあえず、この写真で我慢ください。
田が広がる平地から、細い道を山に向かって、でこぼこ道を、やつしろさんが運転する車が走ります。途中の会話でも出ましたが、野辺送り(村あげての葬儀)のときは、大変だったそうです。なるほど、そうです。車でさえ、けっこうな道のりで、しかも急な山道でしたから。そんな話をしていたら、数基の墓碑がならぶ一角に到着しました。
ここでも、本体の墓地とはちがう場所に、つまり、そこへ向かうまでの道のりに、戦死者の墓地が造られていました。きっと、それぞれに礼拝しながら、自分たちの墓地に向かったのでしょう。
碑文を読めば、そこにも、日露戦争の墓碑が1基ありました。
故陸軍歩兵一等卒 黒丸藤吉之墓
そう刻まれています。
この方の名前は、『高島郡誌』にありました。
一番上の写真をよくよく見れば、中央の階段が一番立派です。そして、その先にあるのが、黒丸藤吉の墓碑です。なるほど、一番最初に、造られた墓碑であることを示している気がします。
田が広がる平地から、細い道を山に向かって、でこぼこ道を、やつしろさんが運転する車が走ります。途中の会話でも出ましたが、野辺送り(村あげての葬儀)のときは、大変だったそうです。なるほど、そうです。車でさえ、けっこうな道のりで、しかも急な山道でしたから。そんな話をしていたら、数基の墓碑がならぶ一角に到着しました。
ここでも、本体の墓地とはちがう場所に、つまり、そこへ向かうまでの道のりに、戦死者の墓地が造られていました。きっと、それぞれに礼拝しながら、自分たちの墓地に向かったのでしょう。
碑文を読めば、そこにも、日露戦争の墓碑が1基ありました。
故陸軍歩兵一等卒 黒丸藤吉之墓
そう刻まれています。
この方の名前は、『高島郡誌』にありました。
一番上の写真をよくよく見れば、中央の階段が一番立派です。そして、その先にあるのが、黒丸藤吉の墓碑です。なるほど、一番最初に、造られた墓碑であることを示している気がします。
Qooとのアイコンタクト ― 2010/11/14
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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