お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧高島郡で「忠魂碑」(慰霊碑)を求めて ― 2010/11/15
私の単独行で、大津市と高島市で忠魂碑を探して来ました。それは、戦前への復古の思いではなく、過去の戦争の傷跡をしっかりこの目で見ておきたいということ、現に残っているものを遺跡として、保全して、後世に伝えたいという動機からです。
高島市で、10月から、ブログを通じて、やつしろさんの協力を得られるようになりました。そこから一気にこの作業が進みました。高島郡の社会生活や歴史を心得ておくことの大切さは、抽象的にはわかっていましたが、探索の過程のなかで、よりリアルに感じることができました。
たとえば、忠魂碑は、いったい何柱、高島郡に建立されたのかという問題があります。
当初、私には想像がつかない問題でした。
10月4日に、やつしろさんから次のようなコメントをいただきました。
まず、明治22(1889)年4月1日に町村制が施行されました。
このときは、高島郡は17村。①剣熊村、②海津村、③西庄村、④百瀬村、⑤川上村、⑥今津村、⑦三谷村、⑧饗庭村、⑨新儀村、⑩本庄村、⑪青柳村、⑫安曇村、⑬広瀬村、⑭水尾村、⑮大溝村、⑯高島村そして⑰朽木村。つまり、(狭義の)日清戦争(1894~95)のときは、この状態。
その後、村から町となるところが出てきます。
明治35(1902)年末には、大溝村が大溝町になり、日露戦争(1904~1905)のときは、16村1町。日露戦争直後の明治39(1906)年末に、今津村が今津町になり、高島郡は、2町15村となりました。
その後、昭和15(1940)年に安曇村が安曇町に、昭和18(1943)年に水尾村、大溝町、高島村を合併して高島町が成立し、この時点で、高島郡は3町(今津・安曇・高島)と12村(剣熊、海津、西庄、百瀬、川上、三谷、饗庭、新儀、本庄、青柳、広瀬、朽木)となったとあります。
以上のことは、すぐには暗記できませんが、心得ておきたいと思います。
戦後のことですが、昭和29(1954)年に、本庄村、青柳村、安曇町、広瀬村を合併して、安曇川町が成立。翌30年には、剣熊村、海津村、西庄村、百瀬村を合併してマキノ町が、川上村、今津町、三谷村を合併して今津町が、饗庭村、新儀村を合併して新旭町が成立した結果、高島郡は、5町(マキノ、今津、新旭、安曇川、高島)1村(朽木)となりました。私が実感をもって受けとめられるのは、この5町1村です。
私は、10月初めの時点で、マキノの海津、今津の宮ノ森で忠魂碑を見つけていました。やつしろさんは、安曇町田中で1柱、旧高島町で大溝町、水尾村、高島村の4柱を確認されておられました。全部で17柱とすると、残りは11柱。
これにも10月7日に、コメントをいただきました。
こういう経過で見学に出かけることになったのです。
再発見された忠魂碑のすべてを回ることができませんでしたが、記事を書くまえに感謝を込めて、経過を載せさせていただきました。
高島市で、10月から、ブログを通じて、やつしろさんの協力を得られるようになりました。そこから一気にこの作業が進みました。高島郡の社会生活や歴史を心得ておくことの大切さは、抽象的にはわかっていましたが、探索の過程のなかで、よりリアルに感じることができました。
たとえば、忠魂碑は、いったい何柱、高島郡に建立されたのかという問題があります。
当初、私には想像がつかない問題でした。
10月4日に、やつしろさんから次のようなコメントをいただきました。
忠魂碑は、大正の終わりから昭和の初めにかけて、在郷軍人が中心となって、各村、競って建立しました。村の名前を言われても、私は郡外の人間のために、実感がないのです。それで、もう一度メモすることにしました。
その頃、高島市には、二つの町(今津町、大溝町)と十五の村がありましたから、多分その数、忠魂碑は残っているはずです。
戦後すぐには、進駐軍の存在におもねて、折って土中に埋めた自治体もありましたが、間もなく復活しました。
例えば、高島町には、旧大溝町、水尾村、高島村の忠魂碑が、それぞれ残っています。
まず、明治22(1889)年4月1日に町村制が施行されました。
このときは、高島郡は17村。①剣熊村、②海津村、③西庄村、④百瀬村、⑤川上村、⑥今津村、⑦三谷村、⑧饗庭村、⑨新儀村、⑩本庄村、⑪青柳村、⑫安曇村、⑬広瀬村、⑭水尾村、⑮大溝村、⑯高島村そして⑰朽木村。つまり、(狭義の)日清戦争(1894~95)のときは、この状態。
その後、村から町となるところが出てきます。
明治35(1902)年末には、大溝村が大溝町になり、日露戦争(1904~1905)のときは、16村1町。日露戦争直後の明治39(1906)年末に、今津村が今津町になり、高島郡は、2町15村となりました。
その後、昭和15(1940)年に安曇村が安曇町に、昭和18(1943)年に水尾村、大溝町、高島村を合併して高島町が成立し、この時点で、高島郡は3町(今津・安曇・高島)と12村(剣熊、海津、西庄、百瀬、川上、三谷、饗庭、新儀、本庄、青柳、広瀬、朽木)となったとあります。
以上のことは、すぐには暗記できませんが、心得ておきたいと思います。
戦後のことですが、昭和29(1954)年に、本庄村、青柳村、安曇町、広瀬村を合併して、安曇川町が成立。翌30年には、剣熊村、海津村、西庄村、百瀬村を合併してマキノ町が、川上村、今津町、三谷村を合併して今津町が、饗庭村、新儀村を合併して新旭町が成立した結果、高島郡は、5町(マキノ、今津、新旭、安曇川、高島)1村(朽木)となりました。私が実感をもって受けとめられるのは、この5町1村です。
私は、10月初めの時点で、マキノの海津、今津の宮ノ森で忠魂碑を見つけていました。やつしろさんは、安曇町田中で1柱、旧高島町で大溝町、水尾村、高島村の4柱を確認されておられました。全部で17柱とすると、残りは11柱。
これにも10月7日に、コメントをいただきました。
残りの11の忠魂碑、発見はなかなか難しいと思います。
我々の年代・・・幸喜好齢者・・には「忠魂碑」の意識がありますが、少し若くなると寺関係の住職でも全く知りません。
六人ほど、旧の村の忠魂碑のありかを聞きましたが、とんでもない答えで、全く話になりませんでした。
そう簡単に見つからない。そう簡単には登れない。・・・・そんな処に、神聖なものは造られました。
観音巡りの西国三十三ヵ所は、そんな処にあり、忠魂碑もその通りです。
安曇村の「田中山忠魂碑」、大溝町の「天岩山忠魂碑」、饗庭村の「大師山忠魂碑」がそうです。
また、子弟の教育の場に、ということで、水尾村の小学校校庭、新儀村の小学校校庭、西庄村の小学校校庭などです。
その他、それぞれの地域の思いで、いろんな場所に造られています。 山にある忠魂碑や神社の馬場にある忠魂碑は、春祭りのあくる日・・・後宴の日の、地元民の宴会の場所にもなりました。
昨日、勘を頼りに忠魂碑を探しに行きました。
全く知らない「ど素人」ではないので、少し見つかりました。
広瀬村、高島村、新儀村、饗庭村、川上村、西庄村、百瀬村、剣熊村です。
地元の本庄村、青柳村はまだです。
文献は・・・・分かりませんが、ないと思います。
川上村の忠魂碑・・・凄く立派なもの・・建立は大正の初め・・・
広瀬村の忠魂碑・・・これも真っ二つに割られていました・・・
新旭町・・・小学校、天岩山のものは無いようで、全然別の場所に平成元年建立の慰霊碑が出来ていました、名簿つきで・・・
十月は、親鸞聖人報恩講の季節で、私は四か寺の御法話を依頼されています。
十一月になれば、暇が出来ますので、御案内します。
こういう経過で見学に出かけることになったのです。
再発見された忠魂碑のすべてを回ることができませんでしたが、記事を書くまえに感謝を込めて、経過を載せさせていただきました。
剣熊村の忠魂碑(大正11年建立)@高島市 ― 2010/11/15
旧・剣熊村は、湖西地域の最北端にあり、福井県に接しています。現在は、高島市マキノ町。この地で、忠魂碑を探したことがありました。しかし、元村役場あたりを見回しましたが、見つけることはできませんでした。
やつしろさんにしても、すぐには発見できなかったそうです。近くに追い坂峠の道の駅があります。その駅から北に向かうと、左手に墓地があります。そこに見当をつけて、見に行ったけれどなかったそうです。それで仕方なく、道の駅に戻って、「あ!」と・・・見つけたのです。
私も現場に行きましたが、何度も何度も、そこは通過していた場所でした。目にしていたかも知れないのですが、まったく意識には登りませんでした。
さて、忠魂碑の置かれた位置に注目しました。
忠魂碑の置かれた場所は、幹線道路の脇にある小山の中腹。建設当時は当然、幹線道路はなかったはずです。その高さと方向は、集落をまともに見下ろす位置にあります。逆に、集落からは、よく見えたことでしょう。また、海津から登ってくる峠の位置ですから、旅人からは、忠魂碑を見上げながら、道を急いだことでしょう。
階段は40段。私は無意識に登りましたが、やつしろさんは数を数えていました。それは、大切なことです。ちなみに、JR湖西線の高架駅では、53段。よく見れば、下の14段は後から(道路工事の結果)つけたもののようです。本来の道は、その上についていたのでしょう。
やつしろさんにしても、すぐには発見できなかったそうです。近くに追い坂峠の道の駅があります。その駅から北に向かうと、左手に墓地があります。そこに見当をつけて、見に行ったけれどなかったそうです。それで仕方なく、道の駅に戻って、「あ!」と・・・見つけたのです。
私も現場に行きましたが、何度も何度も、そこは通過していた場所でした。目にしていたかも知れないのですが、まったく意識には登りませんでした。
さて、忠魂碑の置かれた位置に注目しました。
忠魂碑の置かれた場所は、幹線道路の脇にある小山の中腹。建設当時は当然、幹線道路はなかったはずです。その高さと方向は、集落をまともに見下ろす位置にあります。逆に、集落からは、よく見えたことでしょう。また、海津から登ってくる峠の位置ですから、旅人からは、忠魂碑を見上げながら、道を急いだことでしょう。
階段は40段。私は無意識に登りましたが、やつしろさんは数を数えていました。それは、大切なことです。ちなみに、JR湖西線の高架駅では、53段。よく見れば、下の14段は後から(道路工事の結果)つけたもののようです。本来の道は、その上についていたのでしょう。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント