
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
高島郡2町15村の忠魂碑から(写真集) *更新2010/11/30 ― 2010/11/30
○剣熊村 大正11年建立(上の写真)
四角柱。集落を見下ろす岡の上。
○海津村 昭和八年十月建立。東郷平八郎書。
自然石そのまま。公園。
○西庄村 戦後(昭和28年)に再建。堤康次郎書。
四角い板状。小学校校庭にある
○百瀬村 大正6年4月建立。男爵 元田亨吉書
自然石そのままを使用。お寺にある
○川上村 大正4年3月建立。陸軍大将伯爵 寺内正毅書。
巨大な自然石を使用。再建。
○今津町 大正9年10月建立。陸軍中将志岐守治書
中折れ。公園にある
○三谷村 戦前には「忠魂碑」は建設されていない。
明治百年行事で「慰霊碑」(上の写真)を
昭和43(1968)年9月に建立。
○饗庭村 「大師山(だいしやま)の忠魂碑」。いまはない。
かわりに、「慰霊之碑」と「平和の礎」が建設された。
○新儀村 《旧新儀小学校(現・新旭南小学校)校地の
片隅にあった。(現在)土台のコンクリートと
周りの木々が残っている。現物不明》
(やつしろさん)
○本庄村 《近くの寺の境内に移され、戦後できた慰霊碑と
並んでいる。》(やつしろさん)
○青柳村 存在しているのかどうか不明。
○安曇村 「田中山の忠魂碑」。中央で折られている。
昭和3年10月建立。陸軍大将一戸兵衛書。
○広瀬村 昭和3年11月建立。陸軍大将一戸兵衛書。
中折れ。土台も再建されている。
○水尾村 《旧水尾小学校(現・高島保育所)校地の
片隅にあった・・・築山だけ残っており、
子供の遊び場になっている。現物不明。 》
(やつしろさん)
○大溝町 「天岩山(てんがんさん)の忠魂碑」が現存
(やつしろさん)
○高島村 存在しているのかどうか不明。
○朽木村 存在している。
更新記録
2010/11/30
「朽木村」と考えていたものが、実は、大津市の「葛川村」の忠魂碑であることがわかりましたので、削除しました。
2010/11/19
以上が今の到達だと思います。ミスが多くて申し訳ありませんが、チェックいただければ、うれしいです。
写真を眺めていると、各村の台所事情なども見えてくる気がします。「現存する」と教えていただいた残りの碑も早く見たいという思いに駆られます。
四角柱。集落を見下ろす岡の上。
○海津村 昭和八年十月建立。東郷平八郎書。
自然石そのまま。公園。
○西庄村 戦後(昭和28年)に再建。堤康次郎書。
四角い板状。小学校校庭にある
○百瀬村 大正6年4月建立。男爵 元田亨吉書
自然石そのままを使用。お寺にある
○川上村 大正4年3月建立。陸軍大将伯爵 寺内正毅書。
巨大な自然石を使用。再建。
○今津町 大正9年10月建立。陸軍中将志岐守治書
中折れ。公園にある
○三谷村 戦前には「忠魂碑」は建設されていない。
明治百年行事で「慰霊碑」(上の写真)を
昭和43(1968)年9月に建立。
○饗庭村 「大師山(だいしやま)の忠魂碑」。いまはない。
かわりに、「慰霊之碑」と「平和の礎」が建設された。
○新儀村 《旧新儀小学校(現・新旭南小学校)校地の
片隅にあった。(現在)土台のコンクリートと
周りの木々が残っている。現物不明》
(やつしろさん)
○本庄村 《近くの寺の境内に移され、戦後できた慰霊碑と
並んでいる。》(やつしろさん)
今日仕事の帰り、遠回りをして、もう一度、旧本庄村の忠魂碑を探しに行きました。 ありました。お寺の境内に・・・。ここはもともと、旧役場の傍にあったらしいのですが、移り変わって、戦後今の場所に安置されました。 と、同時に、戦いで散った人の追悼碑が、新しく出来ていました・・・「十七の桜碑」です。いずれも自然石の、立派なものです。
○青柳村 存在しているのかどうか不明。
○安曇村 「田中山の忠魂碑」。中央で折られている。
昭和3年10月建立。陸軍大将一戸兵衛書。
○広瀬村 昭和3年11月建立。陸軍大将一戸兵衛書。
中折れ。土台も再建されている。
○水尾村 《旧水尾小学校(現・高島保育所)校地の
片隅にあった・・・築山だけ残っており、
子供の遊び場になっている。現物不明。 》
(やつしろさん)
○大溝町 「天岩山(てんがんさん)の忠魂碑」が現存
(やつしろさん)
○高島村 存在しているのかどうか不明。
○朽木村 存在している。
更新記録
2010/11/30
「朽木村」と考えていたものが、実は、大津市の「葛川村」の忠魂碑であることがわかりましたので、削除しました。
2010/11/19
以上が今の到達だと思います。ミスが多くて申し訳ありませんが、チェックいただければ、うれしいです。
写真を眺めていると、各村の台所事情なども見えてくる気がします。「現存する」と教えていただいた残りの碑も早く見たいという思いに駆られます。
コメント
_ みろくの風 ― 2010年12月22日 17時19分17秒
_ BIN★→みろくの風さん ― 2010年12月23日 10時21分09秒
名簿ですけれど、兵庫県の名簿がご入り用ということでしょうか?
戦後に調査され、まとめた本があることを最近知りました。
今日、明日いうお急ぎでなければ、調べてお伝えします。
戦後に調査され、まとめた本があることを最近知りました。
今日、明日いうお急ぎでなければ、調べてお伝えします。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
高島郡の忠魂碑の写真を見たのですが、もしあれば忠魂碑の名簿を教えて頂ければと思います。こちらは兵庫県の寺ですが、現在、戦没者の供養をさせて頂いていますので。