お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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政府が軍部に気兼ねするのは危険~「暴力装置」発言に~2010/11/20

青い空に銀杏の黄色、古木に生気がよみがえっています
 秋は美しい季節です。旧い銀杏の木にも生気が蘇り、目を楽しませてくれます。社会の出来事にかかわりなく、人生は美しいと思えます。

 戦争の記事を書いてきました。そういうこともあり、一言いうべきだとおもったのは、「暴力装置」発言をめぐる騒動でした。

 人が人に暴力をふるうのは許されません。ですから、銃器の保持は(アメリカは別かも知れませんが)、基本的に認められていません。武器は、国家が独占しているのです。警察と軍隊で。
 国と国の間で争いを暴力で問題を解決するのが戦争です。それを担うのは軍隊なわけですから、軍隊が「暴力装置」というのは、疑問の余地がありません。戦車が田を耕したり、爆撃機が花の種をまくわけではないのです。
 旧日本軍が自国民を守る建前ながら、実際の振る舞いは自国民を虐げ、命を奪うこともした(自決の強要も含めて)のが沖縄戦の有りようでした。
 ですから、そういう軍隊の性格(「暴力装置」)と悲惨な歴史的経験(軍部の暴走を許す統帥権など)をふまえて、シビリアン・コントロールが確立していくるのです。
 いま、政権担当者が「暴力装置」と言うべき事かどうかは別かも知れません。しかし、その発言のそこだけをとらえて、だれが、どういう理屈で攻撃しているのかは、注目に値します。
 東京都の石原慎太郎知事は19日の記者会見で、仙谷由人官房長官が自衛隊を「暴力装置」と表現したことについて「軽率というか、ばかというか。はなはだ好ましくない発言で、陳謝で済むものか」と強く批判した。また「下手をしたら暴力団と自衛隊を重ねて想定するようなイメージにつながりかねない。自衛隊は傷ついたと思う」とも指摘した。(時事通信)
 つまり、軍部の心証を根拠にした非難です。
 ほぼ同じ趣旨ですが、自衛隊OB村井知事の発言。
自衛隊出身の村井嘉浩知事は19日、産経新聞の取材に対して「自衛官に対して大変失礼だ」と述べて、強い不快感を表明した。
 村井知事は取材に対して「他国の侵略に対して自衛するのと暴力を振るうというのは全く意味が違う。自衛隊は暴力を振るうために存在する組織ではない。あまりにも不謹慎な発言ではないかと強い憤りを覚えます」と語気を強めた。
 大阪出身の村井知事は昭和59年に防衛大学校を卒業、陸上自衛隊東北方面航空隊(仙台市)などに籍を置いていた。 .(産経新聞)
 「自衛隊」が暴力をふるうために存在していないならば、武器はいらないわけです。また、自国を守る軍隊が暴力装置でなく、攻めてくる他国の軍隊が暴力装置という議論は、心情論であったとしても、国際的に通用する理屈ではありません。お互いがそれを主張しはじめたら、どうなるか考えれば、わかることです。
 軍隊の客観的性格を論じるのではなく、自衛隊という名前の軍部の心証をもとに攻撃する手法は、戦前の不敬罪を思い起こさせます。
 適切不適切で議論はあったにしても、シビリアン・コントロールをする主権者の立場からではなく、それを受けるべき軍部の立場から非難が生まれ、それに影響されるのは危険な気がします。

日清戦争戦病死者「陸軍歩兵二等卒 奥村久米蔵之墓」@旧大津陸軍墓地2010/11/20

日清戦争戦病死者「陸軍歩兵二等卒 奥村久米蔵之墓」@旧大津陸軍墓地
 日清戦争で戦病死した高島郡出身の奥村粂(久米)蔵の墓碑(E136)が、旧大津陸軍墓地にあります。単独での墓碑の紹介が遅れたので、掲載します。
 死亡年月日は、明治28年3月1日。

Qooと秋田犬のお友だち2010/11/20

Qooと秋田犬のお友だち
 久しぶりにカミさんといっしょにQooの散歩をしました。早朝ですが、湖岸にむかうと、犬の散歩をする人たちが何組もいました。
 カミさんは出会う人出会う人にご挨拶。Qooも顔見知りらしい様子です。今朝であったワンコのなかで、一番印象的だったのが、秋田犬君。
 大きいだけでなく、毛がふさふさして、さわれば気持ちよさそうでした。Qooが追い回すので、迷惑そうでした。やさしいワンコでした。

近代日本を代表する建築家の一人・武田五一設計の「石山忠魂碑」2010/11/20

近代日本を代表する建築家の一人・武田五一設計の「石山忠魂碑」
 三度も現地に足を運びながら出会うことができなかった忠魂碑がありました。それが、武田五一設計の「石山忠魂碑」です。
 近代日本を代表する建築家の一人で、「関西建築界の父」と呼ばれていた人です。私が幼いころに繰り返し見学した岐阜市の名和昆虫博物館・昆虫碑を設計した人であることもわかり、より親しみをもちました。
 ヨーロッパに留学し、アール・ヌーボーを日本に紹介した建築家と「忠魂碑」。
 この取り合わせには、違和感がないわけではありません。ともかく、見てみたいと思い続けていました。
 そして、最後は、同級生Oさんとの偶然の出会いに助けられて、見ることが出来ました。感謝しています。
 ただただ、驚いて見つめました。
 それは、自然石そのままのボリュームで圧倒する忠魂碑や、おきまりの四角柱(先端は尖っている)の忠魂碑とはかけ離れた存在でした。そこには、異質の精神=近代的な精神を感じました。
 それだけに、いっそう「忠魂碑」という本来の意味との間に、乖離が生まれます。簡単にいえば、私は、この碑からは、「忠魂」を感じません。たとえ、8角形の星形に私の知らない意味があったとしても。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)