
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「かわいい~」という声ですが「犬おことわり」 ― 2010/11/22
子犬のQooを連れて散歩すると、「かわいい~」という声をかけてもらえます。気持ちを良くしながら、神社の近くを歩きました。
しかし、予想通りの「犬おことわり」の立て札。 「TVでは『犬と日本人はお断り』って看板があったね」
と、カミさん。
そうですね、それは「99年の愛」というドラマでした。
太平洋戦争の最中で、米国に移住した日本人への差別と辛苦を描いたドラマでした。
1980年代の「山河燃ゆ」というNHKの大河ドラマでも、日本人収容所の話はでてきました。同時に、このドラマでは、中国を占領した日本政府が美しい公園に『中国人と犬は入場を禁じる』という立て札を建てたことも、描いていました。
神社は美観を守るために、「犬おことわり」。もちろん、それまで悪くいうつもりはありません。それに、日吉さんは、お猿さんですから、嫌う理由も納得です。
しかし、予想通りの「犬おことわり」の立て札。 「TVでは『犬と日本人はお断り』って看板があったね」
と、カミさん。
そうですね、それは「99年の愛」というドラマでした。
太平洋戦争の最中で、米国に移住した日本人への差別と辛苦を描いたドラマでした。
1980年代の「山河燃ゆ」というNHKの大河ドラマでも、日本人収容所の話はでてきました。同時に、このドラマでは、中国を占領した日本政府が美しい公園に『中国人と犬は入場を禁じる』という立て札を建てたことも、描いていました。
神社は美観を守るために、「犬おことわり」。もちろん、それまで悪くいうつもりはありません。それに、日吉さんは、お猿さんですから、嫌う理由も納得です。
「慰霊碑」@深清水 ― 2010/11/22
今津町「忠魂碑」には戦没者名簿碑が付属していない ― 2010/11/22
安曇町「忠魂碑」にも名簿碑は付属していない ― 2010/11/22
巨石と点なし字体が特徴の川上村「忠魂碑」 ― 2010/11/22
川上村の忠魂碑は、自然石そのままの姿を生かしたものでした。
土台はほとんど一つの巨大な岩から出来ていました。それは、碑のボリューム感と一体となって、見る人に威圧感を与えています。他の忠魂碑の土台とは、ちがう特徴でした。
もう一つの特徴は、字体。「魂」にも、「碑」にも、本来あるべき「′」がありません。それはなぜか?やつしろさんが、コメントで答えを寄せていただいています。
下の写真は、碑から入り口を振り返ったもの。 石が敷き詰められた道がまっすく通り、その先に「忠魂碑」が見えました。やつしろさんの車がありますので、碑の大きさの見当がつくと思います。
もう一つの特徴は、字体。「魂」にも、「碑」にも、本来あるべき「′」がありません。それはなぜか?やつしろさんが、コメントで答えを寄せていただいています。
「忠魂碑」の「魂」「碑」に、「テン」が無いこと・・・・ 両字とも、「テン」の無い字は、間違いでなく、有るとのことでした。(家内・・専門家・・・尋ねたら「五體字類」で説明してくれました。) そういえば、中村林蔵さんの碑も、「テン」がありませんね。 『碑』の時・・・「石」に「卑」・・・「卑しい」では、駄目なんですって・・・ 『魂』の場合も、「鬼」と「云う」では・・・失礼に当たるんですって・・・ それを知っている「書家」は、書かないんですって・・・・ 「そうかなあ・・・?」と、勉強になりました。碑そのものだけが印象に残ったわけではありません。 碑と、それが置かれている環境とが一体となり、神聖さを表現していました。
下の写真は、碑から入り口を振り返ったもの。 石が敷き詰められた道がまっすく通り、その先に「忠魂碑」が見えました。やつしろさんの車がありますので、碑の大きさの見当がつくと思います。
「旌表塔」@川上村「忠魂碑」 ― 2010/11/22
我々が最初から今の形であったと思いがちな忠魂碑ですが、実はさまざまな運命を経て、いまに至っています。
「忠魂碑」は、日露戦争(1904~05年)の後に各地で建立されはじめました。その熱中から、国家は、一村一碑と制限したのですが、それも及ばぬところがあったほどでした。
その目的は、その土地の戦没者の顕彰と戦意の鼓舞。「村の靖国神社」の役割を果たしました。
この当初の目的は、1945年の敗戦により失われました。そして、アメリカ進駐軍をはばかって、地中に埋められたり、破砕されました。
1951年のサンフランシスコ講和を境として、復活していきます。
その復活の仕方も一様ではありませんでした。もとの形そのままに復活された碑、別の石ではあるけれど「忠魂碑」として復活されたもの、「忠魂碑」ではなく、「慰霊碑」として再建されたもの・・・などです。
さらに、戦没者の名簿の碑を隣接して建設した場所もありました。それは、百瀬村では「祭魂者芳名」、西庄村では「祭祀者芳名」、新旭町では「平和の礎(いしじ)」というように。剣熊村、今津町、安曇町の忠魂碑には、名簿類の碑は付随していません。
川上村の忠魂碑はどうでしょうか。
川上村では、忠魂碑とならんで、土台つきで、「旌表塔(せいひょうとう)」という名の名簿碑が置かれていました。「旌表」を辞書で調べると、善行を広く知らせるという意味だそうです。顕彰という意味と同じだと思いました。
めったに使われない言葉を使用しているのを見て、川上村で再建された人々の強い思い入れが感じられました。
上の見ておわかりいただけると思いますが、戦没者の名前だけが並べられています。どの戦争で亡くなったのかという区別がありません。このため、『高島郡誌』に漏れた人がいるのかどうかの調査には、時間がかかります。
『高島郡誌』では、川上村で西南戦争で亡くなったのは、大森六蔵ただ一人ということになっていますが、たしかにその名前はあります。
日清戦争の戦没者はないことになっています。照合不能。
日露戦争では、新井勝吉、木下石松、山室源治郎、松本由太郎、古谷徳次郎、原田徳松、州崎善吉、雲野辰之介の8名の氏名が『郡誌』に挙げられていますが、上の「旌表塔」にも、この8名の氏名すべてがあります。
「忠魂碑」は、日露戦争(1904~05年)の後に各地で建立されはじめました。その熱中から、国家は、一村一碑と制限したのですが、それも及ばぬところがあったほどでした。
その目的は、その土地の戦没者の顕彰と戦意の鼓舞。「村の靖国神社」の役割を果たしました。
この当初の目的は、1945年の敗戦により失われました。そして、アメリカ進駐軍をはばかって、地中に埋められたり、破砕されました。
1951年のサンフランシスコ講和を境として、復活していきます。
その復活の仕方も一様ではありませんでした。もとの形そのままに復活された碑、別の石ではあるけれど「忠魂碑」として復活されたもの、「忠魂碑」ではなく、「慰霊碑」として再建されたもの・・・などです。
さらに、戦没者の名簿の碑を隣接して建設した場所もありました。それは、百瀬村では「祭魂者芳名」、西庄村では「祭祀者芳名」、新旭町では「平和の礎(いしじ)」というように。剣熊村、今津町、安曇町の忠魂碑には、名簿類の碑は付随していません。
川上村の忠魂碑はどうでしょうか。
川上村では、忠魂碑とならんで、土台つきで、「旌表塔(せいひょうとう)」という名の名簿碑が置かれていました。「旌表」を辞書で調べると、善行を広く知らせるという意味だそうです。顕彰という意味と同じだと思いました。
めったに使われない言葉を使用しているのを見て、川上村で再建された人々の強い思い入れが感じられました。
上の見ておわかりいただけると思いますが、戦没者の名前だけが並べられています。どの戦争で亡くなったのかという区別がありません。このため、『高島郡誌』に漏れた人がいるのかどうかの調査には、時間がかかります。
『高島郡誌』では、川上村で西南戦争で亡くなったのは、大森六蔵ただ一人ということになっていますが、たしかにその名前はあります。
日清戦争の戦没者はないことになっています。照合不能。
日露戦争では、新井勝吉、木下石松、山室源治郎、松本由太郎、古谷徳次郎、原田徳松、州崎善吉、雲野辰之介の8名の氏名が『郡誌』に挙げられていますが、上の「旌表塔」にも、この8名の氏名すべてがあります。
「ベロ出しているのがかわいいのに・・・」 ― 2010/11/22
「ワンコの目線で撮ってね」っていわれても、無理です ― 2010/11/22

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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