お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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朽木村ではなく、葛川村の忠魂碑?2010/11/26

左手前の電信柱の左横に忠魂碑が見えています
 やつしろさんが朽木村で忠魂碑などの探索をしていただいたことをコメントで知りました。それで、ミステリーと書かれていることとの関係で、ある疑問がわきました(笑)。

もしかして、朽木村ではなく、
葛川村の忠魂碑ではないかと。

 記憶を探ると、場所を確定しようとして、電信柱の表示を探していたとき、「中村」と書かれていたように思いました。「中村」は、朽木村ではなく、葛川村。大津市じゃないですか。いまとなっては、自信がもてません。朽木村の市場を出てから、大津市に抜ける前半のことだったように思ったのです。
 とにかく、付近の写真を載せます。それで、やつしろさんが場所を特定できるなら、うれしいです。
まず、上の写真ですが、左手前に電信柱が見えます。その左手に、小さく忠魂碑が見えているのです。とがった形がそれです。
 この写真では、もう少し大きく見えています。  私はこの場所を通過していて、気がつき、バックして写真を撮りました。
 ここまで来ると台座が見えました。

もし間違っていれば、誤りを広めていることになるので、おわびして、訂正するとともに、以前の記事を消去する必要があります。

『高島郡地図』(郡誌から)の一部2010/11/26

『高島郡地図』(郡誌から)の一部(朽木村付近)
古い時代の『高島郡地図』です。 参考になります。

陸軍墓地にも朽木村にも墓碑がある「陸軍歩兵一等卒 川崎利吉」2010/11/26

「陸軍歩兵一等卒川崎利吉之墓」@旧大津陸軍墓地
やつしろさんから、コメントをいただきました。
朽木の足利庭園興聖寺の墓地に、「川崎利吉」さんの墓碑があり、墓標によると、日清戦争の戦没者らしく思いました。
  この人の名簿は、日清にも日露にもありません。どうなんでしょうね。
 旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑があるのを見つけました。墓碑につけたID番号は、E018です。→名簿
 このことにより、川崎利吉さんが、陸軍歩兵第九聯隊に所属していたこと、出身地は朽木村であること、そして、日誌戦争期に戦病死したことが判明しました。
 亡くなられた事情は、聯隊の動きを追跡した記事がありますが、とりあえず、明治28年8月7日に海城で亡くなられたことがわかります。

 残る問題は、朽木村出身(のはず)なのに、なぜ、『高島郡志』の日清戦争の戦病死者名簿にないかということです。
 単純に、「もれ」でいいのかも知れませんし、別に理由があることなのかも知れません。判断材料が不足しています。

晩秋の美しさは格別です2010/11/26

身近なところで秋を楽しむことができました
晩秋の美しさは格別です。
どこかへ出かけたくても、
そうはいかない事情があります。

どうしようもないとあきらめて、
一歩外へ出れば、そこにも見事な色。

休みがなくても・・・いいかなぁ。
自然は平等にめぐみを与えてくれます。

砲撃にあった韓国のTVで見ました。
平然と攻撃を正当化する北朝鮮政府。
それは許しがたいことですが、
それを理由に、在日の北朝鮮の人への
扱いをひどくするいわれはありません。

また、居留民保護を名目にした出兵が
なににつながるかは、歴史が教えるところです。

その北朝鮮を威嚇するように、
軍事演習が始まります。

美しい秋と平和をすべての人に。
そして、それを見ることができなくなった
砲撃の犠牲者に弔意を表します。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)