
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「陸軍歩兵三上九左衛門碑」@畑墓地は明治39年以降のものではないか? ― 2010/12/03
旧高島郡高島町畑の墓地の入口には、「故陸軍歩兵一等卒林甚蔵碑」が聳える。共同墓地に入る人すべてがこの巨大な墓碑に一礼をしてから、自分の祖先の墓碑に向かったのではないだろうか。
その向こうにも、もう一つ墓碑が見える。
大きさも林甚蔵のものと比べても、そん色がなく、より古い気さえする。
それが、「陸軍歩兵三上九左衛門碑」である。
どうしたことは、まともに側面の碑文を撮影したファイルが見つからない。仕方がないので、小さな部分を引き延ばしてなんとか文字を読み取ろうとしている。
「敦賀第十九聯隊」という文字が読める
この墓碑は、日清戦争や、日露戦争にかかわる墓碑ではなく、もっと後のものではないだろうか。なぜなら、明治39(1906)年10月に軍備編成改正があり、高島郡が大津に営所をもつ第九聯隊から敦賀に営所をもつ第十九聯隊の管轄区にかわったからである。
それにしても、撮り忘れはよくない。
・・・にわか雨が降った日だったっけ?
その向こうにも、もう一つ墓碑が見える。
大きさも林甚蔵のものと比べても、そん色がなく、より古い気さえする。
それが、「陸軍歩兵三上九左衛門碑」である。
どうしたことは、まともに側面の碑文を撮影したファイルが見つからない。仕方がないので、小さな部分を引き延ばしてなんとか文字を読み取ろうとしている。
「敦賀第十九聯隊」という文字が読める
この墓碑は、日清戦争や、日露戦争にかかわる墓碑ではなく、もっと後のものではないだろうか。なぜなら、明治39(1906)年10月に軍備編成改正があり、高島郡が大津に営所をもつ第九聯隊から敦賀に営所をもつ第十九聯隊の管轄区にかわったからである。
それにしても、撮り忘れはよくない。
・・・にわか雨が降った日だったっけ?
日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?Ⅰ ~ 「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」の場合~ ― 2010/12/03
亡くなってすぐに、墓碑がつくられるわけではありません。それは葬儀と埋葬に詳しくない私でも、わかることでした。りっぱな墓碑は、それなりの資金と時間がかかるはずですから。
しかし、技術的な事情はともかく、社会的な事情の方が大事だと思います。
共同墓地への埋葬は土葬が基本でした---明治政府が当初、土葬を禁止したということは先日、教えていただきましたけれど。しかし、戦死者の場合は、遺骸が帰ってきませんでした。そういう戦死者をどう悼むのか---この問題に遺族はもちろん戦死者が属した集落が直面したと思います。
その結果、土葬し、その上に木製の墓標を建てるという方法ではなく、永久にその場が土葬で使えなくなり、土地が不足する(これもお聞きした事情ですが)にもかかわらず、石碑を置くことになったのでしょう。しかし、それには資金も必要になります。
ですから、”いつ建てられたのか”は、大事な問題になると思いました。集落が戦死と向かい合い、どう悼むべきかの結論を出すのにかかる時間だからです。そして、それは集落だけの事情ではなく、戦死者の追悼をめぐる社会的な風潮にも左右されたと思います。
私は、戦没者が、どの隊のどの階級に属していて、いつ、どこで戦没したのかに注目してきました。たしかに、墓碑の所在を確認しつづけてきましたが、墓碑の建てられた事情や年月日には注目してきませんでした。
むしろ、戦死者の場合は石造の墓碑を建てることを当然というつもりで見ていたからです。もっといえば、死者には石造の個人墓碑を建てるのが普通と考えていたからです。この考えはすぐに変わりましたけれど、”いつ建てられたのか”には、注目が向きませんでした。
注目するきっかけは、宮野墓地の「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」でした。
吉田伊之助は、水尾村大字宮野出身。近衛歩兵第二聯隊に所属。上等兵。亡くなったのは、明治28(1895)年8月27日。死亡場所は、基隆兵站病院(『高島郡誌』)です。
墓碑の左側面は上の写真です。碑文(下に解読した文あり)の最後に「明治三十八年十二月建之」と刻まれています。
同じ墓地に、日露戦争の戦没者の墓碑が1柱あります。上の写真の一番左の大きい墓碑が吉田伊之助碑、その隣の少し小さめの墓碑です。この墓碑の正面に「陸軍歩兵一等卒勲八等功七級鈴木勘三郎墓」と刻まれています。
鈴木勘三郎は、同じ水尾村大字宮野出身。日露戦争で明治37(1904)年8月1日に、滾子泡で死亡しています。
鈴木勘三郎の墓が建てられるのに合わせて、吉田伊之助の碑が建てられたのでしょうか。しかし、二つの墓碑の大きさは違いますし、碑文の記述の仕方が違うので、同時とは思えません。
しかし、技術的な事情はともかく、社会的な事情の方が大事だと思います。
共同墓地への埋葬は土葬が基本でした---明治政府が当初、土葬を禁止したということは先日、教えていただきましたけれど。しかし、戦死者の場合は、遺骸が帰ってきませんでした。そういう戦死者をどう悼むのか---この問題に遺族はもちろん戦死者が属した集落が直面したと思います。
その結果、土葬し、その上に木製の墓標を建てるという方法ではなく、永久にその場が土葬で使えなくなり、土地が不足する(これもお聞きした事情ですが)にもかかわらず、石碑を置くことになったのでしょう。しかし、それには資金も必要になります。
ですから、”いつ建てられたのか”は、大事な問題になると思いました。集落が戦死と向かい合い、どう悼むべきかの結論を出すのにかかる時間だからです。そして、それは集落だけの事情ではなく、戦死者の追悼をめぐる社会的な風潮にも左右されたと思います。
私は、戦没者が、どの隊のどの階級に属していて、いつ、どこで戦没したのかに注目してきました。たしかに、墓碑の所在を確認しつづけてきましたが、墓碑の建てられた事情や年月日には注目してきませんでした。
むしろ、戦死者の場合は石造の墓碑を建てることを当然というつもりで見ていたからです。もっといえば、死者には石造の個人墓碑を建てるのが普通と考えていたからです。この考えはすぐに変わりましたけれど、”いつ建てられたのか”には、注目が向きませんでした。
注目するきっかけは、宮野墓地の「陸軍歩兵上等兵吉田伊之助碑」でした。
吉田伊之助は、水尾村大字宮野出身。近衛歩兵第二聯隊に所属。上等兵。亡くなったのは、明治28(1895)年8月27日。死亡場所は、基隆兵站病院(『高島郡誌』)です。
墓碑の左側面は上の写真です。碑文(下に解読した文あり)の最後に「明治三十八年十二月建之」と刻まれています。
明治二十七八年之役為近衛師團守備兵服務於清國大連湾盛京省後従?湾土匪討伐隊勇戦於各乃戦功不少而一朝罹病歿於台湾基隆兵站病院享年實二十有八关つまり、碑が建てられたのは、吉田伊之助が戦病死してから、十年後のことでした。日清戦争どころか、日露戦争の終戦後のことです。これは、どういう事情によるのだろうかというのが私の疑問です。
明治三十八年十二月建之
同じ墓地に、日露戦争の戦没者の墓碑が1柱あります。上の写真の一番左の大きい墓碑が吉田伊之助碑、その隣の少し小さめの墓碑です。この墓碑の正面に「陸軍歩兵一等卒勲八等功七級鈴木勘三郎墓」と刻まれています。
鈴木勘三郎は、同じ水尾村大字宮野出身。日露戦争で明治37(1904)年8月1日に、滾子泡で死亡しています。
鈴木勘三郎の墓が建てられるのに合わせて、吉田伊之助の碑が建てられたのでしょうか。しかし、二つの墓碑の大きさは違いますし、碑文の記述の仕方が違うので、同時とは思えません。
日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?Ⅱ ~ 「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」の場合~ ― 2010/12/03
安曇川町田中墓地にある「陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」。この巨大な墓碑について、もう一度考えることにしました。
この墓碑は、墓というよりは、記念碑だと思いました。建てられた当初の場所を教えていただきましたが、集落でも、目立つ場所でした。それは、共同墓地の中に建てられた(移動していなければ)宮野の吉田伊之助の碑とは、違います。
この墓碑は、いつ建てられたのか、
それはどういう時期、どういう事情だったのか。
陸軍輜重輸卒山崎松蔵は、高島郡安曇村大字田中出身。『高島郡誌』では、所属は、仁賀宗太郎と同じ、大阪第四師団工兵第四大隊となっています。亡くなったのは、明治28(1895)年5月4日。清国金州兵站病院でした。
第四師団は、所属特科として、野砲兵第四大隊、騎兵第四大隊、工兵第四大隊、輜重兵第四大隊をもっていました。山崎松蔵は、輜重輸卒ですが、工兵第四大隊なんでしょうか。 墓碑の右側面には、「明治三十二年三月 従三位伊藤紀書」と刻まれています。
「従三位伊藤紀」とはどういう人物なのかにも興味がありますが、戦病死してから、4年後に建立されたました。
戦没から4年間かかった理由はなんなんでしょうか。
それは、どういう四年間だったのでしょうか。
また、なぜ、明治32(1899)年だったのでしょうか。
私なりに考えはじめました。
最初に浮かんだこと---それは、靖国神社の発展と無縁ではないのではないかということです。
日清戦争とその直後の台湾征服戦争は、初の対外戦争でした。そして、膨大な数の戦没者が生まれました。数だけの問題ではなく、それぞれの集落にとっては初の戦死者体験でした。
そのような社会的な衝撃とかかわって、明治28年12月15日には、1,496名が靖国神社に合祀され、16日から18日にかけて、臨時大祭が行われました。もちろん、実際の死者に比べてあまりに少数の合祀でした。
村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)によれば、「こののち、日清戦争と台湾征討の戦没者の合祀は、調査の終了を待って数年間にわたって逐次行なわれ、その総数は一万四八○○余名に達した」のでした。
山崎松蔵の場合は、戦没から碑の建立まで4年かかりましたが、こういう「調査」と「合祀」の流れのなかで、碑が建立されたのでしょう。
いまの段階では、これ以上わかりません。直接的な資料を探しています。
この墓碑は、墓というよりは、記念碑だと思いました。建てられた当初の場所を教えていただきましたが、集落でも、目立つ場所でした。それは、共同墓地の中に建てられた(移動していなければ)宮野の吉田伊之助の碑とは、違います。
この墓碑は、いつ建てられたのか、
それはどういう時期、どういう事情だったのか。
陸軍輜重輸卒山崎松蔵は、高島郡安曇村大字田中出身。『高島郡誌』では、所属は、仁賀宗太郎と同じ、大阪第四師団工兵第四大隊となっています。亡くなったのは、明治28(1895)年5月4日。清国金州兵站病院でした。
第四師団は、所属特科として、野砲兵第四大隊、騎兵第四大隊、工兵第四大隊、輜重兵第四大隊をもっていました。山崎松蔵は、輜重輸卒ですが、工兵第四大隊なんでしょうか。 墓碑の右側面には、「明治三十二年三月 従三位伊藤紀書」と刻まれています。
「従三位伊藤紀」とはどういう人物なのかにも興味がありますが、戦病死してから、4年後に建立されたました。
戦没から4年間かかった理由はなんなんでしょうか。
それは、どういう四年間だったのでしょうか。
また、なぜ、明治32(1899)年だったのでしょうか。
私なりに考えはじめました。
最初に浮かんだこと---それは、靖国神社の発展と無縁ではないのではないかということです。
日清戦争とその直後の台湾征服戦争は、初の対外戦争でした。そして、膨大な数の戦没者が生まれました。数だけの問題ではなく、それぞれの集落にとっては初の戦死者体験でした。
そのような社会的な衝撃とかかわって、明治28年12月15日には、1,496名が靖国神社に合祀され、16日から18日にかけて、臨時大祭が行われました。もちろん、実際の死者に比べてあまりに少数の合祀でした。
村上重良『慰霊と招魂』(岩波新書)によれば、「こののち、日清戦争と台湾征討の戦没者の合祀は、調査の終了を待って数年間にわたって逐次行なわれ、その総数は一万四八○○余名に達した」のでした。
山崎松蔵の場合は、戦没から碑の建立まで4年かかりましたが、こういう「調査」と「合祀」の流れのなかで、碑が建立されたのでしょう。
いまの段階では、これ以上わかりません。直接的な資料を探しています。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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