
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争の個人墓碑は、”いつ”建てられたのか?Ⅳ ~ 「陸軍歩兵一等卒三矢松太郎墓」の場合~ ― 2010/12/04
旧大津陸軍墓地にも、日清戦争・台湾征服戦争の戦没者の墓碑が並んでいます。
高島市出身者では、西庄村大字蛭口の井花長太郎、高島村大字拝戸の奥村粂蔵、先に紹介した中村林蔵、新儀村大字太田の大塚長次郎、饗庭村大字饗庭の冨田梅吉、饗庭村大字旭の内田検次郎、安曇村大字三尾里の日置卯市、安曇村大字常磐木の福井乙吉の墓碑があります。
しかし、それらは、画一的で、碑文も簡素なものです。
その一方で、共同墓地の墓碑は多様な形をしています。それぞれの集落が、身近な若者のために、それぞれの台所事情にあわせて建設したからでしょう。
高島郡の田中墓地の「陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」や鵜川・打下の「陸軍工兵上等兵 仁賀宗太郎碑」は、驚くほど大きく、また立派なものでした。それとは対照的に簡素な墓碑がありました。永田墓地の「陸愚歩兵一等卒 三矢松太郎墓」です。他を威圧することの少ない文字通りの「墓」だと思いました。
三矢松太郎は、高島郡大溝町大字永田の出身です。『高島郡誌』では所属部隊が不明だとされています。戦没年月日は、明治28(1895)年9月23日。場所は、牛馬頭患者宿泊所病院。
私は、死亡場所と年月日から、三矢松太郎は、近衛歩兵だと考えました。水尾村の吉田伊之助は、近衛歩兵第二聯隊所属と『郡誌』では記録されています。
墓碑が置かれているのは、農耕地の中にある永田共同墓地。
上の写真に墓地の中心となる建物が写っています。その手前正面の一番目立つ墓碑が、三矢松太郎の墓碑です。この墓地と集落にとって初めて経験する戦没者ですから、そういう位置に置かれたのでしょう。
建立年月日は、かろうじて読み取ることができます。 「明治二十九年八月建之」
つまり、戦病死してから一年と経たないうちに、共同墓地に墓碑がつくられました。宮野の吉田伊之助が10年後、山崎松蔵が4年後、中村林蔵が2年後だということを考えれば、早い時期だと思いました。
この墓碑には、左側面に文字が刻まれています。しかし、元が花崗岩の崩れやすい墓碑なので、もはや全体を読み取ることはできないと思います。読めるのは「明治」とか「干」ぐらいです。残念なことです。
高島市出身者では、西庄村大字蛭口の井花長太郎、高島村大字拝戸の奥村粂蔵、先に紹介した中村林蔵、新儀村大字太田の大塚長次郎、饗庭村大字饗庭の冨田梅吉、饗庭村大字旭の内田検次郎、安曇村大字三尾里の日置卯市、安曇村大字常磐木の福井乙吉の墓碑があります。
しかし、それらは、画一的で、碑文も簡素なものです。
その一方で、共同墓地の墓碑は多様な形をしています。それぞれの集落が、身近な若者のために、それぞれの台所事情にあわせて建設したからでしょう。
高島郡の田中墓地の「陸軍輜重輸卒 山崎松蔵碑」や鵜川・打下の「陸軍工兵上等兵 仁賀宗太郎碑」は、驚くほど大きく、また立派なものでした。それとは対照的に簡素な墓碑がありました。永田墓地の「陸愚歩兵一等卒 三矢松太郎墓」です。他を威圧することの少ない文字通りの「墓」だと思いました。
三矢松太郎は、高島郡大溝町大字永田の出身です。『高島郡誌』では所属部隊が不明だとされています。戦没年月日は、明治28(1895)年9月23日。場所は、牛馬頭患者宿泊所病院。
私は、死亡場所と年月日から、三矢松太郎は、近衛歩兵だと考えました。水尾村の吉田伊之助は、近衛歩兵第二聯隊所属と『郡誌』では記録されています。
墓碑が置かれているのは、農耕地の中にある永田共同墓地。
上の写真に墓地の中心となる建物が写っています。その手前正面の一番目立つ墓碑が、三矢松太郎の墓碑です。この墓地と集落にとって初めて経験する戦没者ですから、そういう位置に置かれたのでしょう。
建立年月日は、かろうじて読み取ることができます。 「明治二十九年八月建之」
つまり、戦病死してから一年と経たないうちに、共同墓地に墓碑がつくられました。宮野の吉田伊之助が10年後、山崎松蔵が4年後、中村林蔵が2年後だということを考えれば、早い時期だと思いました。
この墓碑には、左側面に文字が刻まれています。しかし、元が花崗岩の崩れやすい墓碑なので、もはや全体を読み取ることはできないと思います。読めるのは「明治」とか「干」ぐらいです。残念なことです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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