お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
出身地にあるはずの西南戦争戦死者の墓碑 ― 2010/12/12
西南戦争の個人墓碑は、出身地(遠隔地の滋賀県)にはないと思っていました。しかし、『滋賀縣八幡町史』を読むと、つぎの記述がありました。
馬場與吉の運命は、明治維新による軍制改革によって決まったようなものです。
與吉が属することになるのは、歩兵第九聯隊ですが、当初は、農民・町民からなる徴兵だけで軍隊が組めるはずはありませんでした。明治6年9月に「鳥取豊岡北條足羽石川」の五縣の壮兵で一個大隊を組織します。それを大阪備前邸におきます。明治5年12月25日に、第五大隊と改称しました。明治6年に徴兵制度がしかれ、六鎮台制度に移行します。備前邸にいた第五大隊は、大阪鎮台第九聯隊所属となり、明治7年4月19日に、営所を伏見に移します。そして、この年に與吉は徴兵されます。
明治の陸軍は、壮兵を徴兵と段階的に取り替えていきます。明治7年6月1日に、第五大隊を、第九聯隊の第一大隊として、與吉らの徴兵をもって第二大隊を組織します。「第二徴兵(大隊)」とはこういう意味です。
與吉は、まもなく、大津市に移ることになります。
明治7年末に、大津市に新しい営所が完成します。翌8年3月には、與吉らの所属する第二大隊のみが移動します。壮兵は、下士官を残して、残りは解散でした。明治9年には、練兵場が完成し、さらなる徴兵をもって第三大隊を組織します。
與吉は、伏見から大津へと移動しながら、3年間の兵隊生活を送り、二等卒となります。そして、西南戦争に遭遇することになります。
西郷らの動きがつたわると同時jに、明治10年2月19日に、征討の勅令が出されます。わずか3年足らずの訓練の農民・町民軍が、職業的な武士の軍隊・薩軍と対決することになりました。第九聯隊は、ただちに出征。2月27日には大阪を出発し、神戸において、別働第一旅団に編入されます。そして、神戸を出発し、3月5日に、九州の肥後國(熊本県)に到着します。
歩兵第九聯隊に所属する與吉が向かったのは田原坂でした。上の写真がそれです。そこで、人生初めての実戦となったその日に、與吉は戦死しました。
自ら軍人として生きたいと願って入った軍隊ではなかったはずです。政府が決めたとおりに、20歳で徴兵され、訓練され、派兵され、実戦の初日に戦死・・・奪われた人生を思うとたまらなくなりますね。
歩兵二等卒 馬場與吉この「大林」というのは、馬場與吉の出身地です。今の地名はよくわかりません。残っているならば、探し出したいと思います。
嘉永六年生
明治七年四月二十九年歩兵第二徴兵(大隊)入隊、十年二月二十七日鹿児島縣賊徒征討のため大阪出発、三月六日熊本縣山本郡田原坂にて開戦、戦死、大林七五八墓地に葬る
馬場與吉の運命は、明治維新による軍制改革によって決まったようなものです。
與吉が属することになるのは、歩兵第九聯隊ですが、当初は、農民・町民からなる徴兵だけで軍隊が組めるはずはありませんでした。明治6年9月に「鳥取豊岡北條足羽石川」の五縣の壮兵で一個大隊を組織します。それを大阪備前邸におきます。明治5年12月25日に、第五大隊と改称しました。明治6年に徴兵制度がしかれ、六鎮台制度に移行します。備前邸にいた第五大隊は、大阪鎮台第九聯隊所属となり、明治7年4月19日に、営所を伏見に移します。そして、この年に與吉は徴兵されます。
明治の陸軍は、壮兵を徴兵と段階的に取り替えていきます。明治7年6月1日に、第五大隊を、第九聯隊の第一大隊として、與吉らの徴兵をもって第二大隊を組織します。「第二徴兵(大隊)」とはこういう意味です。
與吉は、まもなく、大津市に移ることになります。
明治7年末に、大津市に新しい営所が完成します。翌8年3月には、與吉らの所属する第二大隊のみが移動します。壮兵は、下士官を残して、残りは解散でした。明治9年には、練兵場が完成し、さらなる徴兵をもって第三大隊を組織します。
與吉は、伏見から大津へと移動しながら、3年間の兵隊生活を送り、二等卒となります。そして、西南戦争に遭遇することになります。
西郷らの動きがつたわると同時jに、明治10年2月19日に、征討の勅令が出されます。わずか3年足らずの訓練の農民・町民軍が、職業的な武士の軍隊・薩軍と対決することになりました。第九聯隊は、ただちに出征。2月27日には大阪を出発し、神戸において、別働第一旅団に編入されます。そして、神戸を出発し、3月5日に、九州の肥後國(熊本県)に到着します。
歩兵第九聯隊に所属する與吉が向かったのは田原坂でした。上の写真がそれです。そこで、人生初めての実戦となったその日に、與吉は戦死しました。
自ら軍人として生きたいと願って入った軍隊ではなかったはずです。政府が決めたとおりに、20歳で徴兵され、訓練され、派兵され、実戦の初日に戦死・・・奪われた人生を思うとたまらなくなりますね。
コメント
_ きへいたい ― 2010年12月15日 09時39分40秒
_ BIN★→きへいたいさん ― 2010年12月15日 17時38分40秒
こんにちは。
情報ありがとうございます。
名称を教えていただいたので、
「戦死名簿」に行き着くことができました。
埋葬者名簿は・・・非売品ですか。
情報ありがとうございます。
名称を教えていただいたので、
「戦死名簿」に行き着くことができました。
埋葬者名簿は・・・非売品ですか。
_ やつしろ ― 2010年12月16日 17時01分03秒
「馬場與吉」さんの出身地「大林村」は、明治7年から22年の村名。
明治13年の戸数273・人口1213。
明治22年蒲生郡宇津呂村と合併、大字名となる。
宇津呂村は、昭和8年蒲生郡八幡町と合併、大字宇津呂町となり、現在は近江八幡市の大字名。
場所は、日牟禮八幡宮の地元、近くに八幡小・八幡商高がある。
探すのなら、分かりやすい所なんですが・・・・・
明治13年の戸数273・人口1213。
明治22年蒲生郡宇津呂村と合併、大字名となる。
宇津呂村は、昭和8年蒲生郡八幡町と合併、大字宇津呂町となり、現在は近江八幡市の大字名。
場所は、日牟禮八幡宮の地元、近くに八幡小・八幡商高がある。
探すのなら、分かりやすい所なんですが・・・・・
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月17日 20時22分52秒
そのあたりなんですか。
そこなら、何度か足を運びました。
日牟禮八幡宮も、八幡小・八幡商高も。
でも、まだ行くチャンスはあります。
そこなら、何度か足を運びました。
日牟禮八幡宮も、八幡小・八幡商高も。
でも、まだ行くチャンスはあります。
_ やつしろ ― 2010年12月20日 22時09分47秒
もう一度、清水の櫻墓地を訪れました。
南部家のお墓の確認にです。
砲弾型の日露戦役の墓(郡誌名簿にある「中村治平」さん、郡誌名簿にない「徳田政吉」さん)に挟まれて、一基の、余り高くない角型の「陸軍兵卒南部由○の碑」がありました。
○は、「松」に近い字です。
だとすると、これは、西南戦争で亡くなったとされる「南部由松」さんの、高島市で初めての「西南戦争の墓碑」です!!
「旧海津村の忠魂碑の傍の戦死者名簿」に、「南部由造」さんがあり、これが名簿にない日清戦役のものかと思っていましたが、そうではない!
よく見れば、傍に戦没者「南部由造」さんの墓は、ちゃんとありました。
そしてそれは、もっと新しい時代のものでした。
そして、そして! この墓を建てたのは、なんと「南部由松」さんでした。
この前、お家の方が、「南部由松」は、戦死じゃなく91歳まで生きました・・とおっしゃいましたが、「由松」さんは、二人おられたのだと思います。
明治10年頃、若くで死んだ子の替わりに、次に生まれた子にもう一度、同じ名前を付けて育てたのだろうと思います。
南部家のお墓の確認にです。
砲弾型の日露戦役の墓(郡誌名簿にある「中村治平」さん、郡誌名簿にない「徳田政吉」さん)に挟まれて、一基の、余り高くない角型の「陸軍兵卒南部由○の碑」がありました。
○は、「松」に近い字です。
だとすると、これは、西南戦争で亡くなったとされる「南部由松」さんの、高島市で初めての「西南戦争の墓碑」です!!
「旧海津村の忠魂碑の傍の戦死者名簿」に、「南部由造」さんがあり、これが名簿にない日清戦役のものかと思っていましたが、そうではない!
よく見れば、傍に戦没者「南部由造」さんの墓は、ちゃんとありました。
そしてそれは、もっと新しい時代のものでした。
そして、そして! この墓を建てたのは、なんと「南部由松」さんでした。
この前、お家の方が、「南部由松」は、戦死じゃなく91歳まで生きました・・とおっしゃいましたが、「由松」さんは、二人おられたのだと思います。
明治10年頃、若くで死んだ子の替わりに、次に生まれた子にもう一度、同じ名前を付けて育てたのだろうと思います。
_ BIN★→やつしろさん ― 2010年12月21日 00時32分53秒
すばらしい!!の一言です。
執念の探索でしたね。
しかも、矛盾点も解決しています。
海津公園の忠魂碑に付随する「殉国英霊芳名誌」で、南部とつくのは、由松さんと由造さんしかいません。「陸軍兵卒南部由松碑」は、まちがいありません。西南戦争の墓碑です。
これは、大切な発見です。
西南戦争とつながるものが現存しているのですから。
執念の探索でしたね。
しかも、矛盾点も解決しています。
海津公園の忠魂碑に付随する「殉国英霊芳名誌」で、南部とつくのは、由松さんと由造さんしかいません。「陸軍兵卒南部由松碑」は、まちがいありません。西南戦争の墓碑です。
これは、大切な発見です。
西南戦争とつながるものが現存しているのですから。
_ 石碑のある家 ― 2014年09月28日 07時54分38秒
知り合いの方から、このブログを紹介していただいた者です。
馬場興吉の石碑というのは、私の家の庭にある石碑のことだと思います。
もしも、ご覧になられるのでしたら、住所をお知らせします。
(すいませんが、このコメントは非公開にしていただきますようお願い申し上げます。)
馬場興吉の石碑というのは、私の家の庭にある石碑のことだと思います。
もしも、ご覧になられるのでしたら、住所をお知らせします。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
馬場與吉さんのお墓は高月の官軍墓地にもあります。
歩兵第九連隊第一大隊第三中隊 三月八日田原坂戦死。
それで・・・アジア歴史史料センターの「6月6日丙第51号 戦死名簿の件 大阪鎮台(2)」
4貢に記載されていました。三月八日田原坂戦死になっています。
町史は所属中隊か6日に田原坂で開戦し、その後に田原坂で戦死の意味かと勝手に推測しています。
玉東町の高月、字蘇浦の官軍墓地に埋葬された名簿は、下記の書籍に記載されています。
「歴史への招待」西南の役と玉東町 昭和56年発行 玉東町役場 非売品
古書では流通していますが、役場には余剰分はないです。