お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「動的防衛力」への転換 ~新「防衛力大綱」~ ― 2010/12/18
1945年の夏に一旦解体された日本軍が、占領統治していたアメリカ政府によって、「自衛隊」として蘇り、海外派兵の既成事実を積み重ねて憲法九条の歯止めを限りなく空文化しながらも、考えのうえでは、自国防衛という内容でした。
しかし、2010年12月7日に閣議決定された新「防衛力大綱」を読むと、さらに一歩踏み込んだ内容となっています。マスコミでも取り上げられていますが、新しくつくりだされた概念=「動的防衛力」の内容を見ると、中国や朝鮮など特定の地域を想定し、海外での活動に力点を置くものとなっています。そこには、これまでの「基盤的防衛力」とは、質的な変貌があり、極めて危険なことだと思います。
CNNの報道記事ではつぎのように書かれています。
日本は、近代国家の出発に際して、西南戦争という無惨な内戦を戦ったあと、外征を念頭に軍隊づくりを開始し、日清戦争、日露戦争、中国戦争、太平洋戦争に突っ込みました。そして、大陸進出の口実は、いろいろあり得ました。
「歴史は常に現代史」といったのは、クローチェ。「歴史は現在と過去との対話」といったのは、E.H.カーでした。司馬遼太郎が日露戦争への過程を肯定的に描くドラマが放映されるいま、問われているのは、歴史への責任感だと思います。生きている世代は、好むと好まざるにかかわらず、過去の世代の負の遺産を引き受けざるをえないのです。
しかし、2010年12月7日に閣議決定された新「防衛力大綱」を読むと、さらに一歩踏み込んだ内容となっています。マスコミでも取り上げられていますが、新しくつくりだされた概念=「動的防衛力」の内容を見ると、中国や朝鮮など特定の地域を想定し、海外での活動に力点を置くものとなっています。そこには、これまでの「基盤的防衛力」とは、質的な変貌があり、極めて危険なことだと思います。
CNNの報道記事ではつぎのように書かれています。
大綱は、最近の北朝鮮の動向や中国の近代化が「透明性の不足」とあいまって地域・国際社会の懸念を引き起こしていると指摘。北朝鮮と中国からの潜在的脅威を見据え、冷戦時代の「基盤的防衛力」から、機動力や即応性を重視する「動的防衛力」へとシフトした。能動的に踏み込んでいくことには、アメリカの要請もありますが、1990年代に顕著となった多国籍企業化とは無縁ではないのでしょう。北朝鮮の最近の事態は、意図を覆い隠すには好適なものでしょう。
向こう10年間の日本の防衛計画を示した今回の新防衛大綱では、ロシア向けに北海道に配備されていた重装備の部隊を再編成し、沖縄の那覇基地の戦闘機部隊を増強するなど、南西諸島防衛を強化している。
日本は、近代国家の出発に際して、西南戦争という無惨な内戦を戦ったあと、外征を念頭に軍隊づくりを開始し、日清戦争、日露戦争、中国戦争、太平洋戦争に突っ込みました。そして、大陸進出の口実は、いろいろあり得ました。
「歴史は常に現代史」といったのは、クローチェ。「歴史は現在と過去との対話」といったのは、E.H.カーでした。司馬遼太郎が日露戦争への過程を肯定的に描くドラマが放映されるいま、問われているのは、歴史への責任感だと思います。生きている世代は、好むと好まざるにかかわらず、過去の世代の負の遺産を引き受けざるをえないのです。
日露戦争戦病死者名簿@『戦時事績 滋賀郡膳所町』 ― 2010/12/18
各市町村の『戦時事績』のなかには、人数だけは記されていますが、氏名のないものもあります。『戦時事績 滋賀郡膳所町』(現在の大津市膳所学区)には、日露戦争の戦病死者の氏名などが記されています。いそいでメモしたので不十分な点はあります。
『大津市志』では、冨永東一さんは少尉ではなく、特務曹長になっています。→クリック。
○駒井 松太郎以上のなかで、私が墓碑を確認している方が何名かいます。一気には無理ですが、記入していきます。
陸軍歩兵一等卒
●藤本 清三郎
陸軍歩兵一等卒
明治37年5月26日 金州南山にて戦死
*別保墓地→クリック
●佐々木 松之助
陸軍歩兵上等兵
東鶏冠山北砲台にて戦死
*別保墓地→クリック
○臼杵 重英
陸軍歩兵大尉
明治37年11月8日。清国得利寺にて病歿
○小林 泰蔵
海軍一等水兵 明治37年2月13日。旅順口にて戦死
●冨永 東一
陸軍歩兵少尉
明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
*岡山墓地→クリック
●徳大寺 亀一
陸軍歩兵少尉
明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
*旧大津陸軍墓地
●鈴木 房吉
陸軍歩兵上等兵
明治38年3月2日。北台子附近にて戦死
*梅香山縁心寺(膳所藩主の菩提寺)。→ここ
○小林 勝次郎
陸軍歩兵一等卒
明治38年3月2日。北台子附近にて戦死
○小林 慶三郎
陸軍歩兵軍曹
明治38年3月4日。来神堡にて戦死
○北脇 藤吉
陸軍歩兵伍長
明治38年4月5日。小貴興堡にて戦死
○国松 藤次郎
陸軍歩兵一等卒
明治38年3月5日。清国馬軍丹附近で戦死
○国松 喜三郎
陸軍歩兵一等卒
明治38年4月6日。大坂予備病院にて病死
●村治 昭
陸軍少尉
明治37年8月22日 東冠山北砲台にて戦死
*旧大津陸軍墓地
○山口 重造
海軍中尉
明治37年12月14日 旅順口にて戦死
『大津市志』では、冨永東一さんは少尉ではなく、特務曹長になっています。→クリック。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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