お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ムー ― 2011/03/10
東北地方太平洋沖地震の被災者へ可能な援助をしたい ― 2011/03/12
明治以降最大規模の地震だそうです。
世界的にも5番目とか。
そのすさまじい被害に呆然とします。
お亡くなりになった方々への弔意とともに、
まだ命が救える方々への救援の手が
間に合うことを祈ります。
自分にできる行動をしたいと思います。
いまは、募金ぐらいしか思いつきませんが。
世界的にも5番目とか。
そのすさまじい被害に呆然とします。
お亡くなりになった方々への弔意とともに、
まだ命が救える方々への救援の手が
間に合うことを祈ります。
自分にできる行動をしたいと思います。
いまは、募金ぐらいしか思いつきませんが。
映像 ― 2011/03/15
家族とワンコを連れて、ドッグランに
行ったのは、つい先日のことでした。
帰宅途中に立ち寄ったお店で
食べたこのケーキ。
「いちござんまい」という名前。
冗談のつもりで撮影しました。
いまは、それがまぶしく思えます。
それは、3月11日から始まりました。
私は動き回っていて、感じませんでした。
しかし、同じ事務所にいた人たちは、
ゆっくりした振動に体調の不調を訴えました。
それが悲劇の始まりでした。
いまなお続き、終末を見通せないこの災害は、
「東日本大震災」という名前を与えられました。
マグニチュード9.0という世界最大規模
未曾有の津波災害、そして原発事故。
たしかに、それだけで恐怖は伝わります。
しかし、私たち同時代人が
記憶するのは、この文字ではなく、
堤防を乗り越える猛烈な水の勢い、
流されていく車と家屋、
爆心地のような災害地
避難所に集まる被災者、
いまだ見つからない家族を捜し歩く人々
ひとを助けられなかったと涙ぐむ隣人たち、
そういう姿にちがいありません。
有名な作家で知事をしている人が
今回の災害を「天罰」といったそうです。
あとで訂正されましたが、
非難する言葉さえ浮かびません。
世界からの励ましの言葉と
行動に感激した後だっただけに、
赤面する思いでした。
全世界に衝撃をあたえたナマの映像
そこから伝わるものは現実の悲劇の
ごくわずかの部分に過ぎません。
しかし、私たちは、ともに、そこにいた!
そこで、苦しみ、そこで泣いた。
・・・私はそれが周囲の人々を
突き動かしているのだと思いました。
3Dが普及する時代ですから、リアルさは、
やがて、強烈なものとなるでしょう。
しかし、人の痛みへの感性と想像力がないなら、
いくら臨場感が高まっても同じことかも知れません。
行ったのは、つい先日のことでした。
帰宅途中に立ち寄ったお店で
食べたこのケーキ。
「いちござんまい」という名前。
冗談のつもりで撮影しました。
いまは、それがまぶしく思えます。
それは、3月11日から始まりました。
私は動き回っていて、感じませんでした。
しかし、同じ事務所にいた人たちは、
ゆっくりした振動に体調の不調を訴えました。
それが悲劇の始まりでした。
いまなお続き、終末を見通せないこの災害は、
「東日本大震災」という名前を与えられました。
マグニチュード9.0という世界最大規模
未曾有の津波災害、そして原発事故。
たしかに、それだけで恐怖は伝わります。
しかし、私たち同時代人が
記憶するのは、この文字ではなく、
堤防を乗り越える猛烈な水の勢い、
流されていく車と家屋、
爆心地のような災害地
避難所に集まる被災者、
いまだ見つからない家族を捜し歩く人々
ひとを助けられなかったと涙ぐむ隣人たち、
そういう姿にちがいありません。
有名な作家で知事をしている人が
今回の災害を「天罰」といったそうです。
あとで訂正されましたが、
非難する言葉さえ浮かびません。
世界からの励ましの言葉と
行動に感激した後だっただけに、
赤面する思いでした。
全世界に衝撃をあたえたナマの映像
そこから伝わるものは現実の悲劇の
ごくわずかの部分に過ぎません。
しかし、私たちは、ともに、そこにいた!
そこで、苦しみ、そこで泣いた。
・・・私はそれが周囲の人々を
突き動かしているのだと思いました。
3Dが普及する時代ですから、リアルさは、
やがて、強烈なものとなるでしょう。
しかし、人の痛みへの感性と想像力がないなら、
いくら臨場感が高まっても同じことかも知れません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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