お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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Valery Afanassiev : Homages & Ecstasies2011/07/01

アファナシエフの「オマージュ&エクスタシー」
小説家であり、音楽家、ピアニストの
アファナシエフのCD。

グレン・グールド、
セルゲイ・ラフマニノフ
ウラジーミル・ソフロニツキー
ウラジーミル・ホロヴィッツ
エミール・ギレリス
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

これらのピアニストにささげられた曲集である。

体が不自由なために、
棚をかきまわすのをやめて、
手近にあった
このCDを聴き始める。

ついでに、ジャケットの文章を広げる。

あいかわらず、難解で、長大な解説文を
アファナシエフ自身が書いている。
音楽を流しながら、それを読む。

みずからの小説からの引用で
はじまる文章は、回りくどく、
要点がつかみずらい。
買った当初は、我慢できず、
途中でやめてしまったが、
階段から落下したおかげで、
時間も忍耐力も今日はたっぷりある。

アファナシエフは言う。

「ヴァン・ゴッホは、自分のめざすのは人間の
感情を表すことであって、何らかの絵画流派
の理念とか理想をのべるのではないと言っている。
実際、彼が描いた一対の靴は、他のどんな
現実リアルの靴よりも生気に満ちている。・・・
ラフマニノフ、ホロヴィッツ、ギレリス、
ミケランジェリ、グールドといった人たちの解釈は、
他のどんなものよりもリアルである」

アファナシエフは、この「リアル」さへの
オマージュとして、このCDを編んだということになる。

「正気」の側に ~原発事故から~2011/07/02

美しいサイパンの海岸に高射砲の残骸がみえる
 チャップリンの「独裁者」は、ほんとうによくできていて、正気な社会とはなにか、狂気にとらわれた社会とはなにかについて、深く考えさせてくれる。
 ユダヤ人迫害が当然となった時代に、それに立ち向かうことは容易ではない。しかし、チャップリンが扮する床屋の主人公は、記憶喪失にかかっていて、しかも、ながく不在であったために、ナチズムの台頭と支配、ユダヤ人迫害の進行を知らない。つまり、床屋がもどってきた社会は、狂気と正気、正義と犯罪が入れ替わっていた。その認識のずれが、笑いを生み、笑いを凍らせる。
 たとえば、ユダヤ人の家屋・・・どの家でもそうだが、ドアをペンキで汚すのは、正常な社会では「犯罪」である。「正気」な床屋は、ユーゲントが行う犯罪を見つけて抗議する。だが、もはや、正義は床屋の方にあるのではない。裁かれるのは「正気」のほうである。
 そうして、映画は進行するが、狂気はやがて滅ぶことになる。
 
 1945年8月に旧大日本帝国は無条件降伏をした。戦争の実相を知った多くの人は、「なぜ、戦争が止められなかったのか」、「なぜ、狂気を止められなかったのか」と、自らに問いかけた。その答えとして、あるものは、やがて台頭してきた戦争を美化する者たちにむかって筆をとり、あるものは憲法を守る共同に命を燃やす。二度と、正気を失わないために。
 2011年3月、大震災と巨大津波、原発事故。
 「なぜ、原子力災害は防げなかったのか」と、私は自分に問いかける。「なぜ、『安全神話』を打ち破れなかったのか」と。
  ユダヤ人迫害やナチズム、天皇の名の下での人権抑圧と他国への侵略、それらと原発の『安全神話』は、比較するのがおかしいかも知れない。
 しかし、今回の災害とその被害者の姿は、利益優先の狂気からさめることを、「理性」を発揮することを痛切に求めているように思える。
 村上春樹がアメリカと日本にまたがる原発利益集団を名指しすることをせず、「効率」という考え方に主敵を定めたのは、普通の人間の意識改革と立ち上がりに期待したのだろう。
 それは、彼の言うように夢想家の声ではない。また、唯一の声でもないと私は思う。

氷川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡社新書)2011/07/03

 氷川隆夫『夏目漱石と戦争』を紀伊国屋で手に取り、まえがきや結びにかえてなどを読んでいたとき、頭に浮かんだのは、ある映像作品でした。フランスのモンサンジョン氏が編集したスビャトスラフ・リヒテルをめぐる作品「Enigma」です。
 去年の秋ごろに、日露戦争の『戦時事績』を手に入れて、読んでいたことは、なんどか書きました。この事績を読み続けるのは苦痛です。当たり前だと思っていても、苦痛です。それは、戦争への無条件的な協力の姿勢に貫かれているからです。出征者の壮行会から始まり、慰問や募金、戦死者の弔いなど濃厚な社会ぐるみの活動が描かれています。もちろん、批判的な人や憤りの声はあったでしょうけれど、この事績からは無視されています。
 その息苦しさにいつもため息をつくのです。
 社会ぐるみの監視体制と人権抑圧という点では、ピアニスト、スビャトスラフ・リヒテル(1945~1997)が生きた環境は、もっとも厳しいものの一つでした。たとえば、生粋のドイツ人である父は、スパイ容疑で処刑され、自らの演奏活動は様々な制約をうけ、監視されつづけました。リヒテルの凄味は、そのような不自由な生活を強いられながらも、「自由」であった点です。政治的な自由は、体制を打破しなければ得ることはできないでしょう。私は、そういうことを意味しているのではないのです。
 力では屈服させることのできない心の働きのようなものがいいたいのです。むき出しの暴力を目に前にして、また社会全体を覆い尽くす集団的な熱狂に抗して、「自由」であることは容易なことではありません。
 氷川隆夫氏の本を読んだとき、感じたのは、この「自由」の感覚でした。いかえれば、強まる国家主義のなかでそれと対決し、戦い続けた人がいることの救いでした。
  日清戦争、日露戦争以降の時代は、つねに戦争をしていて、治安維持法をはじめ国民への圧政で特徴づけられる暗い時代という印象を私はもっています。そういう時代に、漱石は、どのように生きたのか、著者が描きだす姿に興味津々です。

BIN★→MKさん、hummingbirdさん(「落ちがあるストーリー」へのコメントのお返しに)2011/07/05

MKさん、hummingbirdさん、お久しぶりです。
お見舞いありがとうございます。

MKさんへ
 八ヶ岳での事故は、おいたわしいことです。また、私の痛みへの共感、ありがとうございます。スケールがちがいすぎて、恐縮するばかりです。

 落下した初日は体をわずかに動かすことさえつらく感じました。なのに、カミさんは、落下をネタに、私を笑わせつづけました。必死にこらえてましたけれど、笑わずにはいられませんでした。「痛い!やめろ!」と抗議しました。しかし、横隔膜を痙攣させながら怒る姿には、迫力がありません。カミさんは、まじめにうなずくのですが、目に笑いがあふれています。それを見て、私は爆笑しそうになり、顔を真っ赤にして、こらえる・・・。まあ、脊椎、脳、内臓に損傷がなかったから、できたやりとりでした。
 病院から帰宅し、落ち着いたのでカミさんは出勤することになりました。「必ず電話に出るように」というのがいいつけ。落下した直後ごろはぴんぴんしていても、数時間後に、容体が急変する場合があるからだとあとで知りました。あまり気が回っていなかった私は、ケータイを置き忘れたまま別室で寝てしまいました。ケータイが鳴り続け、それが止まると固定電話が鳴り続けました。・・・今度は、カミさんが気を病む番となりました。

hummingbirdさんへ

 「オチが落ち」、もしくは「落ちがオチ」でした。正直笑えない話ですし、いまでも、笑ったら痛いです。
 ワンコですが、朝は、弟のH君が散歩に連れていってくれています。今朝は、散歩のさなかに、首輪が取れたとか。私なら真っ青になるところでしたが、上手に誘導して自宅近くまで連れて帰り、仕事に出発するためにドアを開けたカミさんが捕まえました。
 たいへんお騒がせしています。


*「落ちがあるストーリー」へのコメントかえしを本文の記事でさせていただきました。

西南戦争の墓碑は高島市では少なくとも2基存在する2011/07/22

旧真田山陸軍墓地における日置住吉の墓碑
 私は、文書記録をもとに、西南戦争、日清戦争、日露戦争の墓碑を(主に高島市と大津市で)探しています。高島市では、この上ないエキスパートである八代さんのおかげで大きく進捗しました。
 案内されてはじめて、九州の官軍墓地や大阪の旧真田山陸軍墓地以外の土地(戦死者・戦病死者の出身地)で、西南戦争の墓碑を見ることができました。
 下は、「高島郡誌」に掲載されている高島市(旧高島郡)出身で西南戦争で戦死・戦病死した若者15名の名簿です。今回見ることができたのは、南部由松、日置住吉の墓碑です。ちなみに、南部由松の墓碑は、九州の官軍墓地にもありますし、日置住吉の墓碑は、旧真田山陸軍墓地にも見ることができます。上の写真がそれです。
 ①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)
 ②海津村 1名 南部由松(海津)
 ③西庄村
 ④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
 ⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
 ⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
 ⑦三谷村 
 ⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
 ⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
 ⑩本庄村
 ⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
 ⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里) 
 ⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
 ⑭水尾村
 ⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
 ⑯高島村

西南戦争の戦死者・日置住吉の墓碑@高島市2011/07/23

西南戦争戦死者・日置住吉の墓碑@高島市(三尾里)
 八代さんは、高島市で二基の西南戦争の墓碑を見つけられました。その一つが、日置住吉の墓碑で、高島市の旧安曇川町の三尾里の北区墓地にありました。この墓地は、田んぼの真ん中にあります。  遠目にも、戦死者の墓碑が数基ならんでいるのが見えました。そのもっとも目立つ墓碑が、日清戦争(1894~95年)での戦死者・日置卯市の墓碑。また、砲弾型の墓碑もありました。
 西南戦争(1877年)の戦死者・日置住吉の墓碑は、「陸軍兵卒」と日置という文字がかろうじて読める程度でした。しかし、古い階級名、文書での記録と埋葬地の一致、および墓碑の形状から、まちがいなく日置住吉の墓碑だと思います。

西南戦争を受け継ぐ記憶~じゃんけん歌~2011/07/23

 私に西南戦争の体験記憶があるわけではありません。しかし、「一かけ、二かけ」という歌の形で、記憶にしみついています。私の歌詞の記憶は断片的ですが、「明治十年」と「西郷隆盛」という文言は覚えています。
ネットには次のような歌詞がありました。
一かけ 二かけて 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ  橋のらんかん 手を腰に  はるか向こうを  ながむれば  一六、七の 姉さんが 花と 線香を手に持って  姉さん姉さん どこ行くの 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘なり  明治十年戦争で うたれて死んだ父親の お墓参りにまいります  お墓の前で手を合わせ なむあみだぶつと拝んだら  お墓の中からゆうれいが ふうわりふわりと じゃんけんぽん
 上の下線の部分ですが、私が覚えているのは、次のような歌詞です。
「私は、西郷隆盛娘です、明治十年三月三日(*史実では9月24日)切腹なされし父上のお墓参りに参ります」

 私は琵琶湖の畔の街に住んでいます。西南戦争の戦地(九州)とはずいぶん離れた土地です。しかし、この戦役を身近に感じ、その戦没者の記録と墓碑を探すことになったのは、幼いころの別の記憶があるからです。大津市の三井寺境内の御幸山には、巨大な「紀念碑」が存在します。めったに人が立ち寄らない場所にあり、荒れてはいますが、その威容は子ども心にも、強い印象をもたらしました。数年間にはじめて、それが西南戦争の碑であることを知りました。知った後に、もう一度見てみたいと思い、時間をかけて探した経過があるのです。
 碑は、大津市と西南戦争の関係を理解する入口になりました。

西南戦争の戦死者・南部由松の墓碑@高島市2011/07/23

西南戦争の戦死者・南部由松の墓碑@高島市
 『高島郡誌』では高島市出身者は西南戦争で15名が戦死したことになっています。その名簿は先にお見せしたとおりです。調べていくと、さらに増えてきます。たとえば、駒井新吉(北舟木)。名簿の整備はまたの機会にすることにします。
 マキノ町海津には、西南戦争で戦死した南部由松さんの子孫の家が実在します。八代さんとともに、訪問させていただきましたが、残念ながらお留守でした。コメントで八代さんがお書きになっていますが、海津の南部家は、「由」の字を名前につける習わしのようです。西南戦争で戦死した由松さんのほかに、もう一人、由松さんが実在し、その方は、91歳で先ごろお亡くなりになったとのことでした。こういう訳で、共同墓地には、「南部由松」さんの墓碑が二つ(当然、別人ですが)あるのです。
 ところで、マキノには有名な「清水(しょうず)の桜」があります。水上勉の小説のモデルともなった桜です。その桜が「滋賀の巨木」(たしかこういう署名でした)という本のなかで取り上げられていました。その写真には、私が探していた日露戦争期の「砲弾型墓碑」がいくつか写っていました。
 つまり、「清水の桜」は、墓地を飾る木だったのです。

 八代さんは、「清水の桜」の墓地で、西南戦争の戦死者・南部由松さんの墓碑を見つけました。上の写真がそれです(背後に、その桜の根元が写っています)。
 旧真田山陸軍墓地や官軍墓地にある西南戦争の墓碑は、所属部隊名、階級名、死亡年月日と死亡場所の記事が彫られていました。それに比べると、碑文は簡素なものです。正面に「陸軍兵卒南部由松碑」とだけあります。
 形をみると、墓の頂点は尖っていますが、ピラミッドのような四角錐ではありません。一般の家屋のように三角柱を横倒しにした形です。これは、三尾里の「日置住吉」の墓碑の場合と同じです。
 墓地との関係でいくと、日清戦争や日露戦争の戦病死者の墓碑とは比べものにならないほど地味であり、目立たない場所に置かれていました。この点が私には注目されました。
 由松の墓碑の隣には、「南部由造」の墓碑がありました。この方については、記事を改めて書きたいと思います。

西南戦争の墓碑は、高島市でまだ見つかるのか2011/07/23

「陸軍兵卒日置(由松碑)」右側面
 集落の共同墓地で見つかった二つの西南戦争の墓碑---「陸軍兵卒日置(住吉碑)」と「陸軍兵卒南部由松碑」---は、形も大きさも正面の碑文も、似ています。形でいけば、死亡者名が記述される正面が、ベースボール形(将棋の形)をしている(よく見るのは四角形)のが特徴だと思います。
 ですから、二つの碑は、同時期に、建立されたものと思われます。勝手な想像ですが、陸軍歩兵第九聯隊がおかれた大津市で241名の戦死者の西南戦争「紀念碑」が建立され、盛大な式典が行われたことと関係があるのではないかと。社会的に注目をあつめた式典に村落の中心人物や遺族が参列し、出身地でもぜひ記念すべき碑を建てようとなったのではないかと想像するのです。
 そうなると、残りの13名の墓碑も、実在するのではないかという期待が湧いてきます。
 八代さんは、高島市で集落の共同墓地をていねいに探しだし、寺院や土地の関係者にもききとって調査されています。高島、安曇川、今津、マキノあたりは、ほぼ完了したそうです。それでも、2基しか見つかっていません。
 日清戦争や日露戦争の場合は、これから記述することになりますが、ほぼすべての墓碑が見つかる(すでに八代さんが見つけている)可能性があります。しかし、残念ながら、西南戦争の墓碑は、これ以上、見つからないかも知れません。共同墓地以外のところに建立されているならば、別ですが。
 二つの墓碑に残されている碑文が手がかりとなるはずですが、写真の日置住吉碑(右側面)の場合はまだしも、南部由松碑は不可能かも知れません。

日清戦争戦病死者の墓碑の位置~安曇川町三尾里墓地~2011/07/23

民間墓地に並ぶ戦死者の墓碑(高島市安曇川町)
 全国どこでもそうなのかは、私にはわかりません。しかし、私の見た限り、共同墓地のなかで、戦死者の墓碑占める位置は共通しています。どこよりも、目立つ位置にあるのです。
 そもそも戦死者の墓碑は、背が高く、通常尖っています。遠目にも、あるのがわかります。そのなかでも、目立つのは、日清戦争や日露戦争の墓碑でした。上の写真は、高島市安曇川町三尾里の共同墓地。田の真ん中にあります。農道は、墓地の正面の建物に通じています。墓地の区画の向かって左手の隅に最大の墓碑が置かれています。
 それが日清戦争の戦病死者・日置卯市の墓碑。丸く砲弾型の墓碑も二基あります。西南戦争の戦死者(日置住吉碑)の墓碑は、前列の一番右手にあります。日清戦争の墓碑に比べれば、ごく小さなものです。
 日中戦争・太平洋戦争の墓碑は、日清戦争墓碑と直角に並べられています。

 ところで、『高島郡誌』には、日清戦争の戦病死者の名前が17名挙げられています。下記がそれです。この名簿をもとに、八代さんが中心となって、所在を確認しているわけですが、先日の行動で、日置卯市、奥村粂蔵、島村幸四郎の墓碑を見ることができました。
 それについて、順次書いていきます。
『高島郡誌』記載の日清戦争戦病死者

①西庄村   井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
②饗庭村   冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
③饗庭村   内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
④新儀村   大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
          以上、4名は旧大津陸軍墓地
⑤安曇村   日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
          三尾里墓地と旧大津陸軍墓地
⑥安曇村   山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
           旧安曇村田中墓地
⑦安曇村   福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
           旧大津陸軍墓地と常盤木・十八川墓地
⑧水尾村   吉田 伊之助(宮野) 陸軍歩兵上等兵
          旧水尾村宮野墓地
⑨大溝町   三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
          永田墓地
⑩大溝町   中村 林蔵(勝野) 陸軍歩兵二等卒
          中野墓地と旧大津陸軍墓地
⑪大溝町   仁賀 宗太郎(勝野) 陸軍工兵上等兵
          鵜川・打下墓地
⑫大溝町   中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
          旧真田山陸軍墓地(大坂市玉造)
⑬高島村   奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
          昌泉寺門前・旧大津陸軍墓地
⑭高島村   林  甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒
          畑墓地
⑮大溝町    島村 幸太郎(勝野)
          徳善寺境内
⑯朽木村    森   岩五郎(栃生)
⑰朽木村    金子 兼助(宮前坊)

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)