お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「正気」の側に ~原発事故から~ ― 2011/07/02
チャップリンの「独裁者」は、ほんとうによくできていて、正気な社会とはなにか、狂気にとらわれた社会とはなにかについて、深く考えさせてくれる。
ユダヤ人迫害が当然となった時代に、それに立ち向かうことは容易ではない。しかし、チャップリンが扮する床屋の主人公は、記憶喪失にかかっていて、しかも、ながく不在であったために、ナチズムの台頭と支配、ユダヤ人迫害の進行を知らない。つまり、床屋がもどってきた社会は、狂気と正気、正義と犯罪が入れ替わっていた。その認識のずれが、笑いを生み、笑いを凍らせる。
たとえば、ユダヤ人の家屋・・・どの家でもそうだが、ドアをペンキで汚すのは、正常な社会では「犯罪」である。「正気」な床屋は、ユーゲントが行う犯罪を見つけて抗議する。だが、もはや、正義は床屋の方にあるのではない。裁かれるのは「正気」のほうである。
そうして、映画は進行するが、狂気はやがて滅ぶことになる。
1945年8月に旧大日本帝国は無条件降伏をした。戦争の実相を知った多くの人は、「なぜ、戦争が止められなかったのか」、「なぜ、狂気を止められなかったのか」と、自らに問いかけた。その答えとして、あるものは、やがて台頭してきた戦争を美化する者たちにむかって筆をとり、あるものは憲法を守る共同に命を燃やす。二度と、正気を失わないために。
2011年3月、大震災と巨大津波、原発事故。
「なぜ、原子力災害は防げなかったのか」と、私は自分に問いかける。「なぜ、『安全神話』を打ち破れなかったのか」と。
ユダヤ人迫害やナチズム、天皇の名の下での人権抑圧と他国への侵略、それらと原発の『安全神話』は、比較するのがおかしいかも知れない。
しかし、今回の災害とその被害者の姿は、利益優先の狂気からさめることを、「理性」を発揮することを痛切に求めているように思える。
村上春樹がアメリカと日本にまたがる原発利益集団を名指しすることをせず、「効率」という考え方に主敵を定めたのは、普通の人間の意識改革と立ち上がりに期待したのだろう。
それは、彼の言うように夢想家の声ではない。また、唯一の声でもないと私は思う。
ユダヤ人迫害が当然となった時代に、それに立ち向かうことは容易ではない。しかし、チャップリンが扮する床屋の主人公は、記憶喪失にかかっていて、しかも、ながく不在であったために、ナチズムの台頭と支配、ユダヤ人迫害の進行を知らない。つまり、床屋がもどってきた社会は、狂気と正気、正義と犯罪が入れ替わっていた。その認識のずれが、笑いを生み、笑いを凍らせる。
たとえば、ユダヤ人の家屋・・・どの家でもそうだが、ドアをペンキで汚すのは、正常な社会では「犯罪」である。「正気」な床屋は、ユーゲントが行う犯罪を見つけて抗議する。だが、もはや、正義は床屋の方にあるのではない。裁かれるのは「正気」のほうである。
そうして、映画は進行するが、狂気はやがて滅ぶことになる。
1945年8月に旧大日本帝国は無条件降伏をした。戦争の実相を知った多くの人は、「なぜ、戦争が止められなかったのか」、「なぜ、狂気を止められなかったのか」と、自らに問いかけた。その答えとして、あるものは、やがて台頭してきた戦争を美化する者たちにむかって筆をとり、あるものは憲法を守る共同に命を燃やす。二度と、正気を失わないために。
2011年3月、大震災と巨大津波、原発事故。
「なぜ、原子力災害は防げなかったのか」と、私は自分に問いかける。「なぜ、『安全神話』を打ち破れなかったのか」と。
ユダヤ人迫害やナチズム、天皇の名の下での人権抑圧と他国への侵略、それらと原発の『安全神話』は、比較するのがおかしいかも知れない。
しかし、今回の災害とその被害者の姿は、利益優先の狂気からさめることを、「理性」を発揮することを痛切に求めているように思える。
村上春樹がアメリカと日本にまたがる原発利益集団を名指しすることをせず、「効率」という考え方に主敵を定めたのは、普通の人間の意識改革と立ち上がりに期待したのだろう。
それは、彼の言うように夢想家の声ではない。また、唯一の声でもないと私は思う。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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