お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争戦病死者の墓碑の位置~安曇川町三尾里墓地~ ― 2011/07/23
全国どこでもそうなのかは、私にはわかりません。しかし、私の見た限り、共同墓地のなかで、戦死者の墓碑占める位置は共通しています。どこよりも、目立つ位置にあるのです。
そもそも戦死者の墓碑は、背が高く、通常尖っています。遠目にも、あるのがわかります。そのなかでも、目立つのは、日清戦争や日露戦争の墓碑でした。上の写真は、高島市安曇川町三尾里の共同墓地。田の真ん中にあります。農道は、墓地の正面の建物に通じています。墓地の区画の向かって左手の隅に最大の墓碑が置かれています。
それが日清戦争の戦病死者・日置卯市の墓碑。丸く砲弾型の墓碑も二基あります。西南戦争の戦死者(日置住吉碑)の墓碑は、前列の一番右手にあります。日清戦争の墓碑に比べれば、ごく小さなものです。
日中戦争・太平洋戦争の墓碑は、日清戦争墓碑と直角に並べられています。
ところで、『高島郡誌』には、日清戦争の戦病死者の名前が17名挙げられています。下記がそれです。この名簿をもとに、八代さんが中心となって、所在を確認しているわけですが、先日の行動で、日置卯市、奥村粂蔵、島村幸四郎の墓碑を見ることができました。
それについて、順次書いていきます。
そもそも戦死者の墓碑は、背が高く、通常尖っています。遠目にも、あるのがわかります。そのなかでも、目立つのは、日清戦争や日露戦争の墓碑でした。上の写真は、高島市安曇川町三尾里の共同墓地。田の真ん中にあります。農道は、墓地の正面の建物に通じています。墓地の区画の向かって左手の隅に最大の墓碑が置かれています。
それが日清戦争の戦病死者・日置卯市の墓碑。丸く砲弾型の墓碑も二基あります。西南戦争の戦死者(日置住吉碑)の墓碑は、前列の一番右手にあります。日清戦争の墓碑に比べれば、ごく小さなものです。
日中戦争・太平洋戦争の墓碑は、日清戦争墓碑と直角に並べられています。
ところで、『高島郡誌』には、日清戦争の戦病死者の名前が17名挙げられています。下記がそれです。この名簿をもとに、八代さんが中心となって、所在を確認しているわけですが、先日の行動で、日置卯市、奥村粂蔵、島村幸四郎の墓碑を見ることができました。
それについて、順次書いていきます。
『高島郡誌』記載の日清戦争戦病死者
①西庄村 井花 長太郎(蛭口) 陸軍歩兵一等卒
②饗庭村 冨田 楳吉(饗庭) 陸軍輜重輸卒
③饗庭村 内田 検次郎(旭) 陸軍歩兵上等兵
④新儀村 大塚長次郎(太田) 陸軍歩兵一等卒
以上、4名は旧大津陸軍墓地
⑤安曇村 日置 卯市(三尾里) 陸軍歩兵一等卒
三尾里墓地と旧大津陸軍墓地
⑥安曇村 山崎 松蔵(田中) 陸軍輜重輸卒
旧安曇村田中墓地
⑦安曇村 福井 乙吉(常盤木) 陸軍歩兵二等卒
旧大津陸軍墓地と常盤木・十八川墓地
⑧水尾村 吉田 伊之助(宮野) 陸軍歩兵上等兵
旧水尾村宮野墓地
⑨大溝町 三矢 松太郎(永田) 陸軍歩兵一等卒
永田墓地 ⑩大溝町 中村 林蔵(勝野) 陸軍歩兵二等卒
中野墓地と旧大津陸軍墓地
⑪大溝町 仁賀 宗太郎(勝野) 陸軍工兵上等兵
鵜川・打下墓地 ⑫大溝町 中江 幸四郎(音羽) 軍役夫
旧真田山陸軍墓地(大坂市玉造)
⑬高島村 奥村 粂蔵(拝戸) 陸軍歩兵二等卒
昌泉寺門前・旧大津陸軍墓地
⑭高島村 林 甚蔵(畑) 陸軍歩兵一等卒
畑墓地
⑮大溝町 島村 幸太郎(勝野)
徳善寺境内
⑯朽木村 森 岩五郎(栃生)
⑰朽木村 金子 兼助(宮前坊)
コメント
_ やつしろ ― 2011年07月26日 08時57分44秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年07月26日 19時19分00秒
とても貴重なお話です。
ところで、墓碑の碑文を読み取るには苦労しています。
時間を変えて、角度を変えて、撮影してみる必要があります。
ところで、墓碑の碑文を読み取るには苦労しています。
時間を変えて、角度を変えて、撮影してみる必要があります。
_ やつしろ ― 2011年08月01日 23時17分41秒
先のコメント、正確でない部分があります。
別の所で、詳しく説明していますの、そこを御覧ください。
三尾里の集落では、埋め専門の墓地には、例外であっても石碑は置かなかった。別の大事な場所に、西南、日清、日露の墓碑をお祭りし、戦後新たに土地を購入し墓地を広げ、そこを戦歿者専用の墓地として整然と配列なさったのです。
別の所で、詳しく説明していますの、そこを御覧ください。
三尾里の集落では、埋め専門の墓地には、例外であっても石碑は置かなかった。別の大事な場所に、西南、日清、日露の墓碑をお祭りし、戦後新たに土地を購入し墓地を広げ、そこを戦歿者専用の墓地として整然と配列なさったのです。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年08月02日 01時22分50秒
そういう事情だったのですね。
墓碑は、集落の方々にとっては、霊となった方々を祭る神聖な場所です。部外者の私にとっては、不遜な言い方になりますが、戦争で亡くなった生身の方の生き様を知る手がかりの一つです。その墓石や碑文、置かれた場所も含めて。
戦没者専用の墓地をつくられた敬虔なお気持ちを思う一方で、旧状の保存を願う気持ちを捨てることができません。
しかし、移葬そのものが、大事なプロセスなのであり、歴史的な行為なのだとも思いました。忠魂碑の建立、隠蔽、再建のプロセスがそうであったように。
墓碑は、集落の方々にとっては、霊となった方々を祭る神聖な場所です。部外者の私にとっては、不遜な言い方になりますが、戦争で亡くなった生身の方の生き様を知る手がかりの一つです。その墓石や碑文、置かれた場所も含めて。
戦没者専用の墓地をつくられた敬虔なお気持ちを思う一方で、旧状の保存を願う気持ちを捨てることができません。
しかし、移葬そのものが、大事なプロセスなのであり、歴史的な行為なのだとも思いました。忠魂碑の建立、隠蔽、再建のプロセスがそうであったように。
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2011/07/23/5974300/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
広くなった。石碑が多くなった。キチンと整備された・・・等々です。
戦前は、一二基の石碑が見えるだけで、後は新旧の墓標だけでした。
一二基の墓標が、日清、日露のもので、昭和になってからのものは、全くありませんでした。
大変纏まりのよい、真面目で勤勉な人たちの集落ですから、村の掟が長年にわたって、きちんと守られてきたからです。
貴重な耕地の一部分を在所中の墓地にする・・・みんながきちんと掟を守らなかったら、たちまちぐちゃぐちゃになってしまいます。
三尾里ではそれこそ何百年、穴を掘って土葬にし、その目印に墓標(桧が多かった)を建て、墓標が腐るまでそこへは新しい死者は埋めない。それを繰り返してきた・・・
例外が・・初めての戦没者(西南戦役)、お寺も大々的に協力した日清、日露。