お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

旧・高島村「戦時事績」から日露戦争戦病死者名簿2011/07/26

旧・高島村「戦時事績」から日露戦争戦病死者名簿
 高島市の旧・高島村の日露戦争の戦病死者は5名。そのすべての墓碑が存在することは、八代さんが確認しています。
 詳しくは、このブログの記事「高島村の日露戦争戦病死者1名抜けている理由」とそのコメントにあります。

日露戦争にかかわる死者・大塚徳松と大塚久左衛門の墓碑@高島市2011/07/26

日露戦争戦病死者・大塚徳松と大塚久左衛門の墓碑@高島市
 高島市の旧高島村にある黒谷墓地に連れていっていただきました。
 上の写真には、墓碑がいくつか写っていますが、そのうちの2基が日露戦争戦病死者の墓碑です。一番手前が、大塚徳松、その左手に大塚久左衛門の墓碑がみえます。
 前者は、おそらく当初からのもの。後者は、昭和19年に建てられたもの。

 現在の大塚久左衛門の墓碑が建て直しなのかどうか、日露戦争の直後に建設されたのかどうかは、わかりません。しかし、久左衛門が戦地ではなく自宅で、しかも講和条約以降に亡くなったことを考えると、当初は建てられなかったように思えます。「戦時事績」の記事にあるように、この若者の「官等級」は空欄になっています。戦争にかかわる死とはみなされなかったのです。したがって、「高島郡誌」での戦病死者の名簿からはずされています。
 現在の墓碑を見ると、「故」が冒頭についていること、当時の階級名は「一等兵卒」ですが「一等兵」となっていること、「戦時事績」当時はなかった官等名(勲八等)が刻まれていることなどに気づきます。

蜘蛛はお好きですか2011/07/26

蜘蛛はお好きですか
物語をつくるのに、蜘蛛を悪役ではなく、
正義の味方として登場させるには、
かなりの勇気がいります。

たしかに、「スパイダーマン」は
正義の味方・・・ですが、姿はヒトです。

蜘蛛のオリジナルの姿をした正義の味方を
私は知りません。

・・・「千と千尋の神隠し」に?

ワンコ@「フラワーズヴァレー」2011/07/26

ワンコ@「フラワーズヴァレー」
阿蘇にある「フラワーズヴァレー」。
カミさんの友人のお店でした。

玄関にいる犬に目が向きます。
家においてきたQooを
思い出すからかも知れません。

近づくと様子が変です。
目が見えない?
「かわいそうに・・・」と
カミさんがなでています。

水尾村の日露戦争戦病死者3名の墓碑2011/07/26

水尾村の日露戦争戦病死者3名の墓碑
 話は、高島村から、水尾村に戻ることになります。
 平成六年(1994年)に、大清寺霊園が整備されたそうです。その入口に近い一角に戦死者の墓碑が集められています。墓地の奥(山手)に向かって置かれています。そのうちの3柱が、水尾村の日露戦争での戦病死者の墓碑でした。
 左から、横田元蔵横田寅吉、そして伊藤岩吉。いずれも砲弾型ではありません。ただ、真ん中の墓碑の高さが左右のものとは違っています。少し低めになっています。左の横田元蔵も右の伊藤岩吉も階級は「陸軍歩兵一等卒」。真ん中の横田寅吉は「陸軍輜重輸卒」。この違いだと思います。いかにも軍隊らしく、死亡した後も、兵種間の差別が形になっているのだと思いました。邪推でしょうか。
 聞き漏らしたように思いますが、当初の場所は、どこにあったのでしょか。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)